19世紀に書かれた秘密の“ゲス日記”がヤバイ! 愛人、赤子殺し、不貞神父… 村のタブーを全告白=仏

2023年6月21日(水)11時0分 tocana

 メディアは連日、女優・広末涼子の不倫報道で持ち切りだ。「ラブレター」「愛の交換日記」まで公開され、広末から鳥羽周作シェフへの赤裸々な心情が衆目に晒されることになったが、もちろん本人らはこうした内密のメッセージが公にされることは想定していなかっただろう。


 海外でも人に見られることは期待せずに書かれた19世紀の秘密日記が見つかり、その内容の“ゲス”さが注目されたことがある。


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※ こちらの記事は2018年6月8日の記事を再掲しています。


 フランスの城の床材に19世紀の大工の秘密の日記が書かれていることが明らかになり、小さな村のえげつない日常が浮き彫りとなった。


 英国営放送「BBC」(6月3日)によると、フランス南東部の高山地帯に建つシャトー・ドゥ・ピコムタール城の床材の裏面に、鉛筆で書かれた1880〜1881年の日記が見つかったという。執筆者は床材を取り付けた当時の大工ヨアキム・マルタンと見られている。日記は全部で72個あり、当時の村人の日常生活を知る貴重な資料となっている。


「これは普通の職人が書き残したものです。誰にも読まれることはないと知っていたため、極めて個人的な内容が書かれています」


 そう話すのは、仏・ソルボンヌ大学の歴史学者ジャック・オリビエ・ブードン教授だ。“極めて個人的”と言っているように、日記の内容は城のすぐ近くのレ・クロット村で起こった出来事、特にセックス、犯罪、宗教を取り扱ったものがふんだんに盛り込まれている。


 その中でも最もショッキングなエピソードが、日記が書かれる12年前に村で起こった嬰児殺しの詳細を書き記したものだ。


 その女性はその後も6人の子どもを産んだが、そのうち4人は馬小屋の下に埋められたという。ヨアキムによると、その子たちを殺したのはヨアキムの古い友人であるバンジャマンだったそうだ。どうやらバンジャマンは女癖が悪い男だったらしく、日記を執筆した時にはヨアキムの妻にも色目を使っていたらしい。「1868年のある日の深夜、私が馬小屋の近くを通った時、その中から誰かの嗚咽が聞こえてきた。それは私の古い友人の愛人だった。彼女は子どもを出産していた」


「この犯罪は私の結婚生活をめちゃくちゃにしようとしている。私がすべきことは一言喋り、馬小屋を指差すだけ。そうすれば奴らは刑務所入りだ。だけど私はしない。バンジャマンは私の幼い頃からの友人なのだ。そして、彼の母は私の父の愛人だった」


 ヨアキムの日記をまとめ出版したブードン教授によると、ヨアキムは度重なる嬰児殺しに恐れを抱いていたが、隣人でもあったバンジャマンの家族が自分の家族と親密な関係にあったため、告発しなかったという。ヨアキムによると、レ・クロット村では誰もが嬰児殺しが行われていることを知っていたが、それを口にすることはタブーだったようだ。このような重苦しい村の空気がヨアキムに秘密の日記を書かせたのかもしれない。


 BBCが紹介しているもう1つのエピソードは、ヨアキムの地元の神父に対する怒りが綴られたものだ。1880年代は第三共和制が誕生したばかりで、フランス中に改革の嵐が巻き起こっている最中だった。特に政教分離と世俗化の政策が推し進められ、教会の権力が制限される過程にあった。ヨアキムは改革を歓迎した。その理由はおそらく、地元の聖職者だったラジエ神父に対する個人的な敵意だった。ラジエ神父は性的な喜びを感じることを戒めながらも、自身は他人の妻を何人も寝取っていたそうだ。


「ラジエ神父は家庭の事情に首を突っ込み、あろうことか妻との営みのやり方まで詮索するなんて、こんなのは絶対に間違っている。奴は月に何回するのか、どんな体位でするのかまで聞いてくる。豚野朗は死んでしまえ」


 とはいえ、ブードン教授によると、当時の聖職者は、妊娠を目的とした性交以外を認めていなかったため、夫婦の性生活を聞くことはよくあり、ラジエ神父が特殊だったというわけではないという。とはいえ、こういった聖職者の態度が反教会的な意識を育んでいったとも語っている。


 さらに、ブードン教授はこの日記に関係する興味深い資料を発見している。1984年にラジエ神父を教区から外して欲しいという請願書がレ・クロット村の住民から地元議会に送られていたのだ。何枚かある請願書の中にはヨアキムが執筆したものもあるそうだ。


 この時の請願者らの訴えは2つあり、1つはラジエ神父が村人たちの告白を悪用しており、道徳的な人物と見なせないこと。2つ目は彼が医者として無能ということだった。当時、医者の数は極めて少なかったため、教区の聖職者が医者代わりをすることはよくあったという。


 ヨアキムは1842年に生まれ、1897年に亡くなった。若い頃は村祭りのバイオリン奏者として日銭を稼ぎ、4人の子どもを養ったそうだ。写真は残っていない。日記は次のように締められている。


「あなたがこれを読む頃には、私はもういません。私の物語は短いですが、誠実で率直です。あなた以外の誰もこれを見ることはないのですから」


参考:「BBC」ほか

tocana

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