「事故死」説も?長尾政景が38歳の若さで突然死した理由

6月29日(火)6時0分 JBpress

(乃至 政彦:歴史家)

上杉景勝の実父であり、上杉謙信の姉婿でもあった越後の大領主・長尾政景。謙信の片腕に等しいこの人物の突然死は、複数の伝承が知られるが、もっとも有名なのは謙信の軍師格と伝わる宇佐美定満による暗殺説だろう。しかしこれは、実際の横死事件から100年以上もの時間が経ってから急に湧き出た話だった。上杉謙信の関東遠征の真相を描きたちまち重版となった話題の書籍『謙信越山』の著者、歴史家の乃至政彦氏が、謎多き「長尾政景溺死事件」の真相に迫る。(JBpress)

◉長尾政景溺死事件の真相(前編)
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65743)


長尾政景の突然死を再考する

 前回の記事(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65743)で、永禄7年(1564)7月5日に横死した長尾政景について、宇佐美定満が殺害したという説について、これが実は後世の作り話であることを述べた。補足すると、宇佐美家は政景死後も改易されることなく謙信の家臣として活動している。

 政景と定満は、全く別の年月日に亡くなったはずだが、宇佐美の子孫を自称する詐欺師が暗殺説を流布させた。こうして“政景の謀反を疑う謙信のため、定満が独断で政景を殺害した”という美談なのか愚行なのかよくわからない物語が有名になったのだ。

 では、謙信の片腕として現役バリバリだった政景が、なぜこの時期に38歳の若さで亡くなったのだろうか。今回はそれを追求してみたい。


一次史料に見る政治的位置

 長尾政景の死因を明記する系図や軍記は、いずれも横死ということで一致している。事故死または暗殺による突然死のどちらかである。このため、病死である可能性はとりあえず除外して考証することにしよう。

 探るべきは、謙信に政景への殺意があったかどうかである。謙信が政景の謀反を疑っていたと記す文献は、すべて謙信が亡くなってからの二次史料(後世の文献)ばかりで、どこまで信を置いていいのかわからない。謙信と政景はどのような関係だったのか。まずは一次史料(当時の文献)で検索してみよう。

 確かに政景は、若い頃の謙信と争いあったことがある。だが、すぐに降伏しており、謙信の姉である仙洞院(俗名は綾と伝わる)と結婚した。仙洞院とは4〜5人の子供を儲けるぐらい仲睦まじかった。その後、謙信は政景の息子である卯松(後の上杉景勝)を養子に迎え入れており、順調にいけば謙信の跡目も政景の息子に渡るはずである。謙信は政景を信頼しており、関東や信濃に遠征する時、越後の留守番を託すほどだった。これらを見る限り、謙信は政景をとても信頼していたようである。

 ただ、謙信は政景をそれほど重用していなかったのではないかとする説もある。根拠とされるのは「侍衆御太刀之次第」という史料で、永禄2年(1559)の秋、京都から帰国した謙信に、国内外の重臣や国人たちが祝儀の太刀を贈った記録である。

 ここでは「直太刀之衆」として、「越ノ十良殿」「桃井殿」「三本寺殿」と守護上杉家の一門衆(謙信の一門衆とは異なる)が並び、そのあと「披露太刀之衆」として「中条殿」「本庄弥次郎殿」「本庄殿[清七郎]」「石川殿」「色部殿」「千坂殿」「長尾越前(政景)殿」「斎藤下野殿」「毛利弥九郎殿」「長尾遠江守殿」「柿崎和泉殿」・・・などとあり、国人衆の7番目に名前があることから、普通の国人衆より下位にあると言われている。だが、この史料をもう少し見直してみよう。

 まず「直太刀之衆」は謙信の側近として春日山城に常勤していただろう一門衆である。彼らは謙信に直接面会して太刀を贈った。ついで「披露太刀之衆」として謙信に使者を派遣して、太刀を贈った者たちが並ぶが、政景よりも先に名前が並んでいる者たちは、「本庄殿」(謙信初期からの重鎮城主)以外いずれも下郡の城主たちである。そしてちょうど長尾政景から中郡、ついで上郡の城主たちが並ぶことになる。

 ところで、この並びに見覚えのある上杉ファンは多いはずだ。天正3年(1575)の「御軍役帳」である。ここでは、景勝を筆頭に謙信の一門衆が真っ先に並び、寵愛する重臣たちからではなく、遠方にある下郡、ついで中郡、そして春日山に近しい上郡の者たちを書き並べさせている。

 これらの史料からは、遠き者から先に謝意を示すという謙信の思考を看取できるだろう。「侍衆御太刀之次第」の順番が謙信政権の序列をそのまま示していたとする根拠は薄いのだ。

 それと、もう一つ注目すべきことは、長尾政景が死して後、謙信は上杉景勝の実母と良好な関係を保っていたらしいことだ。謙信が景勝に対し、「この話は老母に伝えておくべきですね(※1)」と書き送る手紙が残っている。謙信は姉の次女を、北条三郎こと上杉景虎と結ばせており、景虎と景勝の仲も良好だった。その家族関係は密接だったと考えられる。

※1【原文】「此義老母江可申候」(『上越市史』1457号文書)

 政景は上田庄の坂戸城主として、謙信と顔を合わせる機会は少なかったが、その遺族は、謙信が春日山城で冬季を過ごす際、お互いによく顔を合わせあっていたと考えていいだろう。


純然たる事故死か

 私はちょうど10年ぐらい前、一次史料に見える謙信と政景の関係だけを重視して、両者が互いに信頼しあっていたとすれば、政景の死因は事故死だろうと考えて、『上杉謙信の夢と野望』(洋泉社歴史新書y・初版2011、ワニ文庫・再販2017)に私見を開陳した。これを部分的に要約する。

──第5次川中島合戦の直前、政景は謙信の先遣隊として、野尻湖近くの前線まで出ることになり、甲冑を着用した状態で家臣たちと乗船して、夜間のうちに野尻湖を進もうとした。しかし何かの拍子に船が横転し、重装備に身を包む一同は湖深く沈んでしまった。隠密行動で目撃者も少なかったため、事態に驚く周囲の者は後から憶測を語り合った。そして後世、諸説が生まれる土壌となった。

 この説を支持してくれる学者の方もおられるが、しかし今は考えが改まりつつある。一次史料以外の文献を見直すと、別の解釈が可能だと思えてきたからである(後編へ続く)。

『謙信越山』特設ページオープン!
https://jbpress.ismedia.jp/feature/kenshinetsuzan

筆者:乃至 政彦

JBpress

「突然死」をもっと詳しく

「突然死」のニュース

「突然死」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ