魏・呉・蜀の諸葛氏を絶滅させた「司馬一族」の強さの秘密
2024年6月25日(火)5時45分 JBpress
約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
魏の諸葛誕、蜀の諸葛亮、呉の諸葛瑾の3人
三国志の時代、諸葛氏といえば名家であり、劉備に仕えた蜀の諸葛亮、孫権の呉に仕えた諸葛瑾などがよく知られています。しかし、魏にも諸葛氏の重臣がいました。諸葛亮らの従弟といわれている諸葛誕です。
諸葛誕は、蜀と呉の二人の諸葛氏よりもかなり若く、魏の2代目皇帝、曹叡と3代目の曹芳の時代に活躍した人物です。蜀の諸葛亮は234年に病没、呉の諸葛瑾は241年に死去しています。
諸葛誕は239年に魏国で復職していますので、諸葛亮と諸葛瑾の有名な二人の時代が終わったころに、諸葛誕は魏で要職を得ていったといえます。
252年には、呉と魏の衝突である東興の戦いで、諸葛瑾の息子である諸葛恪と諸葛誕は戦っています。そのときは諸葛恪の奇策に敗れますが、大勝利で傲慢になった諸葛恪は、翌年に呉で暗殺される悲劇を迎えています。呉の諸葛恪は、勝利によって逆に足元を大きくすくわれるような迂闊な人物だったのでしょう。
257年、魏の諸葛誕が司馬氏に反旗をひるがえす
蜀の諸葛亮と最後まで対峙した司馬懿(仲達)は、249年に魏内でクーデーターに成功。曹爽は殺され、曹操の血筋の者はほとんどが消えました。魏の諸葛誕は、司馬一族の専横がますますひどくなる状況を見て、司馬氏との衝突に備えていきます。
魏で司馬昭(仲達の次男)が実権をにぎった255年以降、諸葛誕は軍権を取り上げられる危機にさらされており、257年には追い込まれて打倒司馬氏を掲げて挙兵します。しかし、寿春城に10万の兵士と立て籠もり、呉からも援軍を得たにも関わらず翌258年に敗北。
諸葛誕は、兵士数百人から「諸葛公のために死ぬのだ、心残りはない」といわれるほど人望がありましたが、軍事指揮官としての能力が司馬氏に劣り、みじめな敗死を迎えています。258年の諸葛誕の敗北による死で、三国時代における諸葛氏の活躍は終わりを迎えます。
諸葛氏の人々は天下の三強国それぞれで重臣となる人物を輩出するほどだったのに、司馬氏の軍略にことごとく破れていったのです。
なぜ、司馬懿(仲達)の一族は諸葛氏を圧倒できたのか?
蜀は264年に滅亡、呉は266年に滅亡して三国志の時代は幕を閉じます。この終焉には、司馬氏の圧倒的な軍事指揮能力とともに、すべての国の諸葛氏が司馬一族によって打倒されたことも関連します。
なぜ、司馬一族はこれほど強かったのでしょうか。
なぜ諸葛の人々は、司馬一族に勝つことができなかったのでしょうか。
司馬懿(しばい/仲達[ちゅうたつ])は猜疑心の塊のような人物だったといわれています。
『内は忌にして外は寛、猜疑して権変多し』(書籍『司馬仲達』より)
外見は寛大そうに見えても、猜疑心が強く人を信用しない。「権変」つまり権謀術数を多用した人物だということです。彼は首だけを180度回して真後ろが見える「狼顧の相」だったとも記されています。
曹操が旗揚げして間もないころから右腕だった荀彧という天才参謀が亡くなった212年以降から、司馬懿は段階的に魏で活躍を始めました。やがて三国を統一していくほどの手腕を見せた司馬氏の戦略や軍事指揮には、一体どのような特徴があったのでしょうか。
徹底して、相手の弱みを元に攻撃と防御を設計する
237年に、魏の2代目皇帝の曹叡から、北方の公孫淵の討伐の命令を司馬懿は受けます。公孫淵は、首都から離れた遼水という河の対岸に大軍を布陣して、魏軍を待ち構えました。
ところが司馬懿は、敵軍の裏をかきます。
『敵は堅陣をしいて、わが軍の疲れを待っている。しゃむに攻めては、みすみす敵の術中にはまることになる。昔の人も“どんな堅陣をしいて専守防衛につとめても、そのツボを攻めたら、敵は出てきて戦わざるを得なくなる”と語っているではないか』
「いま、敵の大軍は遼水の防御陣地に集結している。本拠地の襄平にはいくらの兵力も残っていまい。本拠地を叩けば、敵はあわてて後を追って戦いを挑んでくる、そのときが、殲滅するチャンスだ」(共に書籍『司馬仲達』より)
司馬懿はこの言葉通り、敵の大軍が布陣する場所を通過して、相手の首都である襄平へ進軍してしまいます。目論見が外れた防衛側は、家族のいる首都に魏軍が進むのをみて慌てます。強固な陣地を放棄して魏軍をおいかけ、待ち構えていた司馬懿の魏軍は、公孫淵軍に3戦3勝と圧倒します。
司馬懿は、攻める時に、相手の強みではなく「相手の弱み」を元に決断をしていることがわかります。相手の強みに正面から立ち向かえば、魏軍も相当な損害を出す上に、相手が求めた有利さを相手に与えてしまうことになるからでしょう。
守るときでさえ、相手の弱みをじっくり観察して決める
人は通常、「自分の強み」か「相手の強み」を元にして決断をしてしまうものです。自分の強みに注目する者は、相手の動きへの観察や客観性が欠けてしまいます。この客観性の欠如は、呉で暗殺の悲劇を迎えた傲慢な天才、諸葛恪にまさに当てはまります。
一方で相手の強みに着目すると、保守的な選択肢ばかりを選ぶことになります。これは蜀の諸葛亮や、呉の諸葛瑾といった優秀な人物が「負けない戦い」を選んでいる姿に重なります。
相手の強みが目に入ると、過剰に堅実な策を選ばざるを得ないようになるのです。
相手の強みとは、相手がこちらに見せたい脅威であり、相手からすれば、こちらの動きを制限するための「見せつけている武器」でもあります。
普通の人は、そのような「相手が見せつける武器」の前に、思考が硬直化してしまうものです。相手の強みに着目したり、相手の強みから思考を切り離すことができない者は、相手が見せびらかしている強みで、思考の自由を失ってしまうのです。
ところが、司馬懿のように「相手の弱みに着目する」ことで、攻撃や防御の決断をする者は違います。また、こちらの行動次第で、相手の強みではなく、「相手が見せたくなかった弱み」をさらけ出すようにさせることも、司馬懿の得意な戦略思考だといえます。
英雄曹操の弱みを知って身を守った司馬懿
司馬懿は、曹操に疑われたとき、長男の曹丕に取り入って親交を結びました。冷徹な武将である曹操に、唯一あった弱点に司馬懿は着目したのです。さすがの曹操も、後継者として考えている曹丕に「任せること」を排除できなかったのです。
「曹操は『司馬懿は人臣に非ざるなり、必ず汝が家の事に預からん』、つまり彼奴に我が家を乗っ取られるぞ、と注意した。しかし、当時太子だった曹丕は司馬懿と仲が良く、事あるごとに彼をかばった。司馬懿もまたひたすら職務に精励したため、やがて曹操も警戒心を解いた」(書籍『正史三國志群雄銘銘傳』より)
もし、司馬懿が曹丕に仕えて親しくしていなければ、司馬懿は曹操に殺されていたでしょう。曹操の唯一の弱点である曹丕の保護下に、司馬懿はまんまと逃げこむことに成功したのです。
敵の弱みに着目する一方で、敵から見た自軍の弱みをあらかじめ補強しておく。こちらを甘く見ていた敵は、予想した弱点を露呈しないことに驚くでしょう。強みを避けて弱みに殺到する司馬懿の軍勢に、敵はなすすべもなく敗北するのです。
徹底して、相手の弱みに着目する。どのような行動をすれば、相手の弱点を露呈できるのかに思考の焦点を合わせる。このような「相手の弱点をひたすら突く」ということは、常人や優秀なだけの人にはなかなかできないことです。
相手の弱みばかりを考え、相手の弱みを徹底して突く。これは実践家、常に戦場に心がある人の思考法です。猜疑心の塊だった司馬懿は。これができたからこそ、その家族とともに三国志の英雄たちの舞台をすべて飲み込む最終勝利を収めたのでしょう。
筆者:鈴木 博毅