「お多賀さん」で親しまれる滋賀県随一の古社・多賀大社の巡り方、ご利益は延命長寿と厄除け、縁結びも

2024年7月5日(金)8時0分 JBpress

取材・文=吉田さらさ 

滋賀県随一の古社

 今回はわたしの大好きな近江にある多賀大社をご紹介しよう。お隣の京都に比べてなんとなく地味なイメージがある滋賀県だが、歴史は古く、各所に訪れるべき神社仏閣がある。中でもこの多賀大社は指折りの格式と規模を誇る滋賀県随一の古社だ。

 御祭神は伊邪那岐大神と伊邪那美大神。古事記によれば、この二柱は男女の夫婦神で、まず日本の国土を形作る島々を産み、続いて八百万の神々を産んだ。さら三貴子と呼ばれるもっとも重要な神、天照大神、月読命、須佐之男命も誕生し、そこから地上の人間にもつながって行く。「お伊勢参らばお多賀へまいれ お伊勢お多賀の子でござる」という古くから伝わる歌がある。つまりお多賀さんはわれわれの祖先神が鎮座するところでもあり、はるばる伊勢まで詣でるなら、さらに足を伸ばしてお多賀さんにもご挨拶をするべきだということだ。

 伊勢神宮の祭神が天照大神であるため「お伊勢お多賀の子でござる」となるのだが、天照大神を含む三貴子は、正しくは伊邪那岐大神と伊邪那岐大神の間に生まれたわけではない。伊邪那美大神は伊邪那岐大神と力を合わせて国生みを終えた後、海の神、山の神などを次々と産んだ。しか火の神を産んだ際に産道にやけどを負って亡くなり、黄泉の国に行ってしまう。

 伊邪那岐大神は妻に会いたい一心で黄泉の国を訪ねるが、伊邪那美大神は「よいと言うまでわたしの姿を見るな」と言った。しかし好奇心にかられた伊邪那岐大神がつい見てしまうと、あの美しかった妻は見るも無残な骸になり果てていた。伊邪那岐大神がその恐ろしい姿を見て逃げ出すと、伊邪那美大神はものすごい形相で追ってきた。そして、この世とあの世の境目を岩で閉じてなんとか逃げおおせた。見るなと言ったのに勝手に見て、しかも醜かったから逃げるなんて、女性の目から見ると、これはちょっとあんまりな結末である。

 さて、どうにか黄泉の国から戻ることができた伊邪那岐大神は、体についてしまった穢れを洗い落としにかかった。これが今も行われる禊ぎのはじまりである。ここでもさまざまな神が生まれ、最後に左の目を洗った際に天照大神、右目を洗った際に月讀命、鼻を洗った際に須佐之男命が生まれた。というわけで、この三貴子は伊邪那岐大神が単独で産んだ神と読み取れる。もっとも、ここまでの話から、これも夫婦神二柱の最後の共同作業という考え方もあるのだろう。

 伊邪那岐大神は三貴子それぞれが治めるべき場所を決め、天照大神は高天原を担当することとなった。しかし須佐之男命はなぜか自分に与えられた海原に行きたくないと駄々をこね、伊邪那岐大神はこれに腹を立てて須佐之男命を追放した。そして自分の仕事はもう終わったと判断して身を隠し、淡海の多賀に鎮座したと古事記には書かれている。

 ここではその「淡海の多賀」がどこかという点が問題になる。近江の多賀と考えればそのまま多賀大社ということになるのだが、日本書紀には、淡路島の「幽宮」というところに身を隠したとも書かれており、実際に淡路市多賀というところに伊弉諾神宮という立派な神社もある。そのため「淡海」は「淡路」の書き間違いかも知れないという説もある。

 さて、どちらが本当の伊邪那岐大神の坐すところなのか。これに関する正解は今のところ見つかっていないが、もっと不思議なのは、あれほどひどい別れ方をして黄泉の国に置き去りにされたはずなのに、今はどちらの神社でも、伊邪那岐大神の傍らに伊邪那美大神が寄り添っていることだ。そもそも神々がお考えは、われわれ地上の人間にははかり知れないものだが、おそらく伊邪那美大神は長年かかって怒りを収め、広い心で伊邪那岐大神をお許しになったのではないかと推察する。


ご利益は延命長寿、厄除け、縁結び

 ともあれ現在の多賀大社は、国生みの功労者である伊邪那岐大神、伊邪那美大神夫妻が仲睦まじく暮らすのにふさわしい落ち着いたたたずまい神社である。ご利益は延命長寿、厄除け。そしてもちろん、縁結びのご利益もある。

 鳥居をくぐると太閤橋と呼ばれる太鼓橋がある。豊臣秀吉が天正16年に米一万石を奉納。母大政所の病気平癒を祈って、この橋を奉納した。続いて御神門。ここから拝殿、神楽殿、幣殿、本殿とまっすぐに連なる参道がすがすがしく壮麗である。

 拝殿内には「お多賀しゃくし」と呼ばれる大きなしゃくしも奉納されている。奈良時代の女帝、元正天皇が病気になった際、こちらの神社の神主が強飯を炊き、しでの木で作った杓子を献上したところ、天皇はただちに快癒した。そのためこの杓子は、無病息災の縁起物として人気となった。現在は、絵馬も杓子の形をしている。

 もうひとつ、ぜひ立ち寄りたいのは、本殿の左側にある奥書院である。江戸時代に建てられた書院造りの様式をよく留めているとして、県の文化財に指定されている。美しい庭や襖絵もあり、神社というより寺を訪れた心地がするが、それもそのはず、こちらは当時の別当寺だった不動院の建物であるという。この神社も神仏混淆の地で、昔はほかにも境内に寺院があったようだ。文化人たちもこちらでよいひと時を過ごしたようで、さまざまな人物が奉納した絵馬も飾られている。池波正太郎、司馬遼太郎、入江泰吉、渥美清八千草薫など、それぞれの個性が伝わってきて実に興味深い。

 お参りを終えたら「絵馬通り」と呼ばれる門前町をそぞろ歩くのもよい。こちらの名物は糸切餅という和菓子だ。米粉で作った白い餅に青い線が二本、間に赤い線が一本入り、中に上品な味のこし餡が入っている。一度長く伸ばしたものを、糸で切って一口大にするので糸切餅という名がついた。由来には諸説あるが、この青と赤の縞模様が蒙古軍の旗を模しているという説が有力だ。多賀大社ではその旗を断って埋めることで戦勝祈願をしたとされ、それにあやかって門前町の住民が縞模様の餅を弓の弦で切ったのが糸切餅の始まりという。

 きれいでとても美味しいこの餅の起源が元寇であったとは驚きだ。神社とその周辺では、深堀りすればするほど面白い話が見つかる。

筆者:吉田 さらさ

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