両陛下がパラオで祈りを捧げた「ペリリュー戦」とは何だったのか

7月8日(月)6時0分 文春オンライン

 平成27年4月、天皇皇后両陛下(現・上皇上皇后両陛下。以下、同)はパラオ共和国をご訪問。ペリリュー島に建つ「西太平洋戦没者の碑」に献花された。それからはや4年もの歳月が流れたが、両陛下が深々と拝礼された場面を記憶にとどめている方も多いであろう。



©JMPA


戦力の差は明らかであったが……


 私はその時、両陛下の後方にいた。同行取材を許されていた私は、お二人の背中を見つめながら、ペリリュー戦について改めて思いを巡らせていた。このほど、当時の取材成果を『 ペリリュー玉砕 南洋のサムライ・中川州男の戦い 』(文春新書)としてまとめた。



 ペリリュー戦とは、太平洋戦争において特筆すべき戦闘だった。約1万人の日本軍守備隊に対し、米軍が投入した総兵力は延べ約4万2000人。戦力の差は明らかであったが、日本軍は驚異的な戦いぶりを見せた。


 日本軍はあらかじめ、島じゅうに地下壕を張り巡らせ、島全体を要塞化。これら地下壕を巧みに利用しながら、上陸してくる米軍の大部隊を迎え撃った。結果、「米軍最強」と謳われていた第1海兵師団は、「史上最大の損害率」を記録したとされる。


 そんな驚異的な戦闘を繰り広げた守備隊に対し、昭和天皇からは11回もの「御嘉尚」(御嘉賞)が贈られた。御嘉尚とは「天皇からのお褒めのお言葉」のことである。御嘉尚が11回も贈られるというのは、先の大戦を通じて極めて異例のことであった。


「現場からの叩き上げ」だった指揮官


 そんなペリリューの戦いを現地で指揮したのが、中川州男大佐である。


 中川は明治31年1月23日、熊本県の玉名郡で生まれた。中川家は代々、熊本藩の藩士という家系だった。


 陸軍士官学校を卒業した中川であったが、一時は学校の配属将校に回されるなど、言わば「閑職」へと追いやられた。しかし、その後に勃発した日中戦争時に華北に派遣された中川は、大隊長として的確な手腕を発揮。多くの戦功を残し、上官たちの目にとまることになった。こうして中川は、陸軍大学校の専科へと推薦され、入学を果たすことができたのである。つまり中川という人物は、エリート街道を順調に歩んだわけではない。彼はまさに「現場からの叩き上げ」であり「挫折を知る人」であった。




ペリリュー戦の実像とは?


 その後、第14師団歩兵第二連隊の連隊長となった中川は、満洲の北部に派遣された。しかし、戦況の悪化に伴い、同連隊は激戦の続く太平洋戦線へと転進することが決定。こうして南洋に向かうことになった同連隊の赴任地が、パラオ・ペリリュー島だったのである。


 ペリリュー島に着任した中川は、島内に地下壕を張り巡らせて戦う計画を推進。部下から話を聞いた上で細部にまで指示を出し、丁寧に準備を進めた。「叩き上げ」「現場主義者」である中川は、徹底した「準備の人」でもあった。



 中川は島の住民に対し、疎開命令を出した。住民への被害の拡大を予防するためである。日本軍のこの命令に関して、今も感謝の言葉を述べるパラオ国民は少なくない。


 昭和19年9月15日、米軍の大部隊が同島への上陸作戦を開始。米軍は当初、「戦闘は2、3日で終わる」と考えていた。しかし、日本軍の抗戦は、米軍の想像を遥かに超えるものであった。


戦友に「早く殺してくれ」


 私はこれまでの取材を通じて、実際にペリリュー戦を戦った生き残りの方々からお話を伺うことができた。いずれの方々も90代、貴重な「最後の証言」である。歩兵第2連隊の軍曹だった永井敬司さんはこう語る。


「怪我を負った兵士が『ウーン』と唸りながら、戦友に『早く殺してくれ』と頼む。戦友は『わかった』ということで、軍刀で突き刺す。それはもうひどい状況でした。腕や足を吹っ飛ばされている兵士もいましたし、頭部がなくなっている死体もありました。『天皇陛下万歳』という絶叫も聞きましたね」



 水や食料も極限まで不足する中、戦闘は74日間に及んだ。中川は最期、集団司令部に向けて、


「サクラ、サクラ、サクラ」


 と打電。玉砕を告げる符号であった。


 その後、中川は自決。享年46である。



「玉砕」でも終わらなかった戦い


 しかし、実はその後もペリリューの戦いは終わらなかった。地下壕に籠もったわずかな残存兵たちが、ゲリラ戦を展開したのである。そして彼らは昭和20年8月15日の終戦も知らないまま、なんと戦後になっても潜伏生活を続けた。その中の一人、海軍上等水兵だった土田喜代一さんは次のように話す。


「私たちは日本が敗れたことも知らず、ひたすら友軍の助けを待っているような状態でした。『米軍に見つかれば、必ず殺される』と固く信じていました」



 土田さんが続ける。


「そんな中、『日本はもう負けている。アメリカに投降しよう』と主張する戦友がいましてね。しかし、その彼は結局、上官に射殺されてしまいました。本当にひどい話です」


「桜が散る季節になると、どうにもたまらない気持ちになる」


 彼らが状況を理解して投降したのは、終戦から1年半以上も経った昭和22年4月のことだった。前述の永井敬司さんは言う。


「戦争ほど悲惨なものはありません。そこにあるのは人と人との殺し合い。日本兵はもちろん、私たちが戦った相手のアメリカ兵にだって、その一人ひとりに親や兄弟がいたんですからね。そのことを考えると、胸が痛みます。戦争というのは本当に哀れなものです」


 永井さんはこうも語る。


「私は春の終わりの頃、桜が散る季節になると、どうにもたまらない気持ちになるんです。それは、玉砕の時の『サクラ、サクラ、サクラ』という言葉と、戦友たちが散っていった場面がどうしても重なって思い出されるから。私にとって春というのは、とても悲しい季節なんです」



 両陛下のご訪問によって、ペリリューの戦いは以前よりも注目を集める存在となった。しかし、その実像を十分に理解している人はいまだ少ない。両陛下は譲位されたが、「ペリリュー戦をいかにして語り継いでいくべきか」という課題は、両陛下から国民への「宿題」のようにも思える。


 玉砕から75年目の今年、改めてペリリュー戦に思いを寄せる機会としたい。




(早坂 隆)

文春オンライン

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