前回東京五輪のレガシー(遺産)東海道新幹線の開業を振り返る 日本に高速鉄道時代がやってきた【取材ノートからNo6】

7月17日(土)9時0分 鉄道チャンネル

川崎重工業 兵庫工場では、新幹線0系と在来線特急形181系が静態保存されている。(写真:鉄道チャンネル編集部)

東京オリンピックが間近に迫りました。結局、ほとんどの会場は無観客になったわけですが、これまで私が書いてきた五輪輸送の記事やコラムは一体何だったのか。それはともかく、無観客でも大会が盛り上がれるのか? それが今、一番気になります。そして、五輪の競技では、テニスの大坂なおみ選手やバスケットボールの八村塁選手のような世界のスーパースターが日本選手団として参加することが信じられない気持ちですが、思い返せば前回の五輪でも世界の鉄道界のスーパースターが登場していました。東海道新幹線です。

といういささか強引なフリで、今回は東海道新幹線開業のころを回顧してみましょう。オリンピックのわずか9日前に開業した新幹線は東京—新大阪間を4時間で結び、列車は超特急の「ひかり」と、特急の「こだま」。車両は0系1種類で、まだまだ生まれたての鉄道でした。

在来線特急「こだま」が6時間30分で結んだ

東京—大阪間を6時間30分で結んだ在来線特急「こだま」。ビジネス客の利用が多く「ビジネス特急」とも呼ばれました。(画像:さんり/PIXTA)

現行ダイヤでは最速2時間22分。将来はリニア中央新幹線もあるわけで、東海道ラインは常に日本の鉄道界の先頭を走っているようです

東京—大阪間は、明治年間には片道20時間近くを要し、表定速度は時速30キロ前後。それこそ1日がかりの移動でしたが、戦後の1956年に全線電化が完成。それまでの客車特急が、電車特急「こだま」(ボンネット形特急の名車として今に語り継がれる151系電車)に置き換えられた1960年のダイヤ改正では、片道約6時間30分に短縮されました。表定速度は時速86キロで、3倍近くにスピードアップされました。

しかし、在来線オンリーでは速度向上とともに輸送力の面でも早晩限界が来るのは目に見えており、国鉄は1956年に「東海道線増強調査会」を本社内に設置。①張付線増、②狭軌別線、③広軌(標準軌)別線——の3案の線増方式を比較検討しました。

張付別線は、早くいえば複々線化。別線は発想はいいのですが、多額の建設費が国鉄財政を圧迫します。事実、国鉄は東海道新幹線開業の1964年度から赤字に転落。やがて国鉄改革やJRグループ発足につながるわけですが、それはまた別の機会に。

講演会で東京・大阪3時間運転を宣言

開業前に国鉄がイメージした東海道新幹線。車両はどこか在来線特急「こだま」に似ています。新幹線がコンテナ列車と思われる貨物列車とすれ違っているのにも注目。東海道新幹線には当初、夜間に貨物列車を走らせるプランもありました。(画像:1959年に国鉄が作成した東海道新幹線のパンフレットから)

そうした中で、現在の鉄道総研の前身に当たる国鉄の鉄道技術研究所(技研)は1957年5月30日、東京・銀座の山葉ホール(当時のヤマハは漢字表記でした)で、「東京・大阪3時間への可能性」と銘打った講演会を開催。最高時速250キロの超特急を走らせて、東京—大阪間を3時間で結ぶ構想をブチ上げ、世論を広軌別線に誘導したのでした。

東海道新幹線の起工式は、1959年4月20日に静岡県熱海市の新丹那トンネル東口で行われました。着工翌月の1959年5月には前回の東京オリンピック開催が決まり、新幹線を五輪までに開業させるという機運が一気に盛り上がりました。それにしても、あのころの日本は熱かった(そういう私も小学校入学前。社会人になってから先輩記者に聞いた話ですが)。

九州の気動車急行から新幹線超特急の列車名に大出世した「ひかり」

開業年の1964年には、東海道新幹線をめぐる話題が相次ぎます。7月7日には速達タイプの超特急が「ひかり」、特急が「こだま」の列車名が公募で決まります。有名な話ですが、それまでの「ひかり」は九州島内の気動車急行でした。それを1位に選んだ当時の投票者のセンスは、抜群だったのかも。他意はありませんが、「のぞみ」「みずほ」「はやぶさ」「とき」「かがやき」と現在の新幹線の列車名と並べても、「ひかり」が一番しっくり来るような気がします。

「こだま」は公募10位でしたが、光速の「ひかり」、音速の「こだま」と並べて語れることもあり、東海道線の在来線電車特急からスライドしました。「ひかり」と「こだま」の列車名は、半世紀以上経た今も現役です。

国際観光都市・京都に全列車が停車

東海道新幹線開業50周年を記念して2014年に名古屋市で開催された「夢の超特急展〜みんなの夢を乗せて半世紀〜」のビジュアルイメージ(画像:JR東海)

前回の東京オリンピック開会式わずか9日前の1964年10月1日、東海道新幹線が開業しました。当初のダイヤは、東京—新大阪間を4時間で結ぶ超特急「ひかり」が1日14往復、各駅停車タイプの特急「こだま」が同じく12往復の合計26往復でした。これに加えて、「こだま」は早朝や深夜時間帯に東京発静岡行き、新大阪発名古屋行きといった区間運転が4往復設定されていました。

超特急の停車駅に当初案では京都が含まれていませんでした。しかし、国際観光都市の表玄関ということで、最終的に全列車が停車することになりました。今回、久しぶりにJR時刻表で東海道新幹線のページを見たら、静岡、名古屋、米原、京都の4駅に、着時刻と発時刻がそれぞれ掲載、他の駅は発時刻だけでした。

記憶をたどれば、昔の時刻表の京都駅は発時刻だけの表記でした。小学生だった私は、全列車が停車する京都駅が、なぜ発時刻だけしか載っていないのだろうと、不思議に思ったものでした。

営業運転で路盤を固める

新幹線は開業前、「ひかり」は東京—新大阪間3時間、「こだま」は4時間で結ぶ計画でした。それが、1時間も余計に掛かったのは、建設が急ピッチ過ぎて路盤が十分に固まっていなかったため。オリンピックに間に合わせるのが至上命令で、とにかく突貫工事でした。最近の整備新幹線は、多くがトンネルや高架構造ですが、東海道新幹線には盛土区間も多くあります。

ちなみに、開業時の東海道新幹線の最高運転速度は時速210キロ。前回コラムで羽越新幹線の「中速新幹線」の話題に触れましたが、初期の新幹線は、今から振り返れば中速新幹線だったわけです。

閑話休題、今は新幹線というと、「300キロ運転」と思ってしまいますが、新幹線が実際に時速300キロで走り始めるのは、東海道新幹線開業からはるか30年も先。1997年の500系「のぞみ」登場時まで待たねばなりません(東海道・山陽新幹線の300キロ運転は山陽新幹線区間のみ)。

「1—1ダイヤ」から「2—2ダイヤ」へ

開業当初の東海道新幹線は東京、新大阪ともに毎時00分に「ひかり」、同30分に「こだま」が発車する、分かりやすい「1—1ダイヤ」でした。

それが開業翌年、1965年10月のダイヤ改正(実際は台風を避けるため翌11月から)では、1時間あたりひかり、こだま各2本を走らせられる「2—2ダイヤ」に移行します。

開業1年を経過して路盤も固まったことから、「ひかり」「こだま」ともにスピードアップ。待望の「東京—新大阪間3時間10分運転」が始まったのでした。

当初の東海道新幹線は全車指定席でしたが、1965年10月のダイヤ改正で「こだま」に自由席が設定されます。1966年3月のダイヤ改正では、「自由席特急回数券」が発売され、区間運転の「こだま」は原則、全席自由席になります。以降、「こだまは自由席主体の新幹線」のイメージが定着します。

ビュフェを2両も連結

ラストは一番最初の新幹線車両、「0系新幹線電車」のポイントを紹介します。12両編成で「ひかり」と「こだま」は車両を共用。新大阪方1〜4、6、10〜12号車の8両が2等車、7、8号車が1等車(ご存じと思いますが今のグリーン車です)、5、9号車は半室2等車、半室ビュフェでした。

ビュフェが2両も連結されていたのは時代といえば時代ですが、2等車の乗客が1等車を通り抜けないで飲食できるようにするため。そういえば私も、関西への単身赴任時は、東京に帰る新幹線の食堂車でビールを飲むのが習慣化していました。

20年以上も増備された0系新幹線

N700SやE5系を見慣れた今の目でみると、どこかずんぐりむっくりに見えてしまう0系新幹線ですが、空気抵抗を減らすための流線形の車体は当時、十分に格好良く見えたものでした。ちなみに前頭部の〝ハナ〟はヘッドライトでなく「光前頭部」で、列車の存在を知らせます(ヘッドライトはハナの両脇に付いています)。

0系は1964年から1985年まで20年間以上も増備が続き、総数3216両に達しました。0系新幹線は当初、国鉄の部内的な形式名でしたが、1985年に100系新幹線電車が登場して車両を区分する必要が生じたため、一般にも「0系」の形式名が広まったそうです。

文:上里夏生


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