硫黄島で「遺骨収集ボランティア」に参加した新聞記者が見た<首なし兵士>の衝撃。「大腿骨を持ったときのずしりとした感覚がしばらく消えなかった」

2024年7月18日(木)6時30分 婦人公論.jp


(写真:『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』より)

1945年3月26日に「硫黄島の戦い」が終結してから、2024年で79年が経過しました。戦没した日本兵2万2000人のうち1万人の遺骨が見つかっておらず、現在も政府による遺骨収集ボランティアの派遣が続けられています。北海道新聞記者・酒井聡平さんは、硫黄島関係部隊の兵士の孫。過去4回硫黄島に渡り、うち3回は遺骨収集ボランティアに参加しました。今回は、酒井さんの初の著書『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』から一部引用・再編集し、硫黄島に眠る謎に迫ります。

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「首なし兵士」の衝撃


遺骨収集作業は上陸翌日に始まった。

壕の入り口付近で見つかったその兵士の遺骨は、頭だけが粉々だった。

「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」

約10年前から毎年、遺骨収集に参加している神奈川県のベテラン団員の水野勇さん(74=年齢は当時=)がそうこぼした。

一部の骨片には鉄が付いていた。近くでは手榴弾の破片も見つかった。

ここは硫黄島の北端。「矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」との訣別電報などで知られる硫黄島守備隊の最高指揮官栗林忠道中将がいた司令部壕から400メートル北東側だ。

1932年ロサンゼルス五輪馬術金メダリストで戦車部隊を率いたバロン西(西竹一男爵)が消息を絶ったと伝えられる地からも近い。

「首なし兵士」は追い詰められて、手榴弾を頭に当てて爆発させ、自決したのだろうか。

先の大戦では大勢の日本勢が自決によって絶命した。

背景として知られているのは、1941年に東条英機陸相が説いた軍人の心得「戦陣訓」がある。

その一節である「生きて虜囚の辱を受けず」を多くの兵士は忠実に守り、捕虜になることを拒み、自決を選んだ。

きっとこの兵士もその一人だと僕は考えた。だから、その時点の僕は、頭がない遺体が多い理由を探ろうとはしなかった。

地獄の戦場


この壕の入り口は高さ約10メートルの崖の最下部に掘られていた。地下に向かうのではなく、洞窟のように横方向に掘られていた。

全長14メートル。壕の天井の高さは4メートルほどだった。


『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(著:酒井聡平/講談社)

不必要に感じるほど高い。手で掘った跡があるのは壁面だけだ。

そのことを考えると、もともと4メートルの高さがある天然の洞窟を利用してつくられた壕だと思い至った。

入り口付近の岸壁は被弾した穴だらけだった。

壕の入り口から海を見渡すと、硫黄列島の一つである「北硫黄島」が見えた。地図によると、約80キロ離れているとのことだが、肉眼で見ると格段に近く感じる。

硫黄島は、弾も水も食糧もない地獄の戦場だった。

ここからイカダで脱出を試みる兵士が相次いだ、との生還者の証言を思い出した。

これだけ隣の島が近くにあると感じられると、脱出の試みも無理はないと思った。

ちなみに、北硫黄島への脱出が成功したという記録は、日本軍側にも米軍側にもない。

兵士は今なお戦っている


親族の葬儀で、焼かれた人骨を見たことは幾度かある。箸を使って骨上げした経験もある。

しかし、焼かれる前の人骨と接したのは、この「首なし兵士」が人生で初めてだった。

散らばっていた歯の長さにまず驚いた。焼く前の歯はこんなにも長いのかと。

この兵士の亡きがらを見る限り、指など小さな骨は土に還る寸前になっていると感じた。

一方で、腕や足など太い部位は原形を保っていた。

大腿骨を持った際のずしりとした感覚は、しばらく僕の手から消えなかった。

兵士はまだ戦っているのだ。僕は強くそう思った。

故郷に帰るため、風化と戦っているのだ。

本土へ帰る


見つかった遺骨は、白い布の上に置かれた。

その日の作業終了時間になると、白い袋に骨を移して「捧持(ほうじ)」した。捧持とは「ささげて持つ」という意味だ。

遺骨収集団では、遺骨を現場から、宿舎内の仮安置室に移動させることを指した。

例えば、3体の遺骨が見つかった日は、収集団の中から、捧持する3人が選ばれた。

優先されたのは、遺族だった。3人は遺骨の入った白い袋を胸の前で抱え、ほかの団員と一緒に宿舎に帰るマイクロバスに乗り込む。

捧持の際は私語を禁じられた。なぜなのか。

「葬儀場から火葬場に向かうバスでも私語は慎むでしょう。それと同じですよ」

と、経験豊富な団員が教えてくれた。

ここでは、毎日がお葬式なのだ。

硫黄島は、活発な火山活動による隆起で、島のあちこちがでこぼこになっていた。舗装工事が追いつかないのだ。だから、マイクロバスはとても揺れた。

終戦から七十余年を経て純白の袋に納まった遺骨は、走るバスの振動を受けてコトコトと揺れ続けた。

やっと本土に帰れると喜んでいるようだと、僕の目には見えた。

※本稿は、『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

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