16世紀フランドルの画家・ピーテル・ブリューゲル、斬新な構図と細密技法で観る者を圧倒する彼の謎に満ちた生涯とは

2024年7月23日(火)8時0分 JBpress

名もなき人々を生き生きと描き、「農民ブリューゲル」「民衆文化の画家」と呼ばれた16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲル。生年や生地などその生涯はよく知られていません。他に類を見ない独特の世界を築いたブリューゲルの魅力と謎を解説していきます。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)


ロマニストの知識人クックの下で修業

 北方ルネサンスを代表するフランドル(現在のベルギー)の画家のひとり、ピーテル・ブリューゲルは、その生年も生地も知られていません。おそらく1525年から30年頃に生まれたと推測されています。

 画家にして詩人であったカーレル・ファン・マンデルが記したネーデルラント(「低地地方」を意味する、現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルクとフランス北部を合わせた地方の旧称)の画家たちの伝記『北方画家列伝』に収録されているブリューゲルの記述では、その生地は現在のアントウェルペン(ベルギー)と、ロッテルダム(オランダ)の中間に位置する町・ブレダ近郊となっています。

 ブリューゲルは1545年頃、アントウェルペンのピーテル・クック・ファン・アールストに弟子入りします。師クックはネーデルラントを代表するロマニストでした。ロマニストとは、イタリアのおもにローマに留学して,自国の精緻な写実の伝統を離れ,古代彫刻とミケランジェロやラファエロといった盛期ルネサンスの芸術家の様式を吸収した16世紀のネーデルラントの画家のことです。

 クックは神聖ローマ皇帝カール5世に召された宮廷画家で、古代ローマの建築家ウィトルウィウスや、ルネサンス後期の建築家セルリオなどの建築論をフランドル語に翻訳するという業績も残しています。また、絵画だけでなくタピスリー(おもに壁掛とされる絵画的な模様を表した織物)やガラス絵の下絵など、幅広く手掛ける画家でした。

 1550年、師クックが亡くなった後、版画家でもある画家ピーテル・バルテンスの助手としてメッヘレンのシント・ロンバウト大聖堂の祭壇画を手伝い、外翼のグリザイユを制作しますが、残念ながらこの祭壇画は焼失したとされ、現存していません。

 1551年にはアントウェルペンの聖ルカ組合に、親方として登録している記録があります。

 1552年から54年頃、イタリアを訪問していることがわかっています。クックというロマニストを師に持ち、イタリア訪問もしているブリューゲルですが、作品にはルネサンスの影響が見られません。しかし、古代ローマの闘技場などの古代遺跡を代表作であるふたつの《バベルの塔》(1563年・1568年)に応用したり、アルプスの風景を作品に取り入れたりしていることから、イタリア旅行はブリューゲルに大きなインスピレーションを与えたと考えられます。

 イタリアへ行った同時期の画家はイタリアの影響を受けたロマニストというエリートでした。彼らはネーデルラント絵画の伝統である精密な写実から離れ,古代彫刻とミケランジェロやラファエロといった盛期ルネサンスの芸術家の様式を模倣します。これに対しブリューゲルは、当時マイナーだった風景や農民など独自の世界を構築しました。ブリューゲルの作品はネーデルラント絵画全体の潮流となり、転換点となったのです。


「新しきボス」と呼ばれたアントウェルペンの版画下絵画家時代

 イタリア旅行から帰国したブリューゲルは、ネーデルラント最大の版画発行者ヒエロニムス・コックの店「四方の風」で版画の下絵画家となります。

 ここで銅板版画の制作に携わりますが、ブリューゲルは下絵だけ描いて、実際に削った作品は《野うさぎ狩りのある風景》(1560年)1点だけでした。

 下絵には風景を扱ったもの、《大きな魚は小さな魚を食う》(1557年)のような諺を題材にしたもの、寓意画も多くありました。これがのちに風景画や民衆文化として花開きます。その下地をコックのもとで作っていったのでした。

 また、《聖アントニウスの誘惑》(1556年)のような、当時大人気だったヒエロニムス・ボスに似せた幻想的な版画の下絵を描いていたことから、ブリューゲルは「新しきボス」と呼ばれて評価されました。

 当時、大画家だったボスのようだと言われるのは、大賛辞でした。ボスと発想は同じですが、ブリューゲルのインスピレーションを源にして描いた怪物や悪魔、あるいは想像上の合成した化け物はおどろおどろしいボスの化け物より少し可愛げがあります。

 前出のカーレル・ファン・マンデルはブリューゲルについて「……たとえ頑固でしかめ面の鑑賞者であっても、彼の絵を前にすると、少なくとも口角が上がるかにやりとせずにはいられない。」(カーレル・ファン・マンデル『北方画家列伝 注解』)と書いています。ここからわずかですが、ブリューゲル像が浮かび上がると思います。


結婚と絵画を確立したブリュッセル時代

 1550年代は版画の下絵が中心でしたが、徐々に数は減り、絵画が制作の中心となります。1563年、ブリューゲルは師クックの娘マイケンと結婚します。当時のブリュッセルは貴族が多く暮らし、政治の中心であり、文化や芸術の中心地でもありました。ここでブリューゲルは絵画制作に集中しました。

 結婚に関して、面白いエピソードが残っています。

 アントウェルペンでブリューゲルは若い娘と同棲していたそうです。その娘が嘘ばかり言うのでブリューゲルは棒にその嘘を刻んでいき、棒いっぱいに嘘が書かれたら結婚を取りやめる約束をして、その通りになったのでマイケンと結婚することになったというのです。マイケンは当時18歳、かなりの年の差婚でした。

 ブリューゲルはブリュッセルで一時期、メッヘレン枢機卿グランヴェルの庇護を受けますが、枢機卿が帰郷したのちは農民画や寓意画を多く制作するようになります。「農民ブリューゲル」とも呼ばれるため、農民出身だと誤解されますが、今では市民階級出身で、人文主義者とも親交があった教養のある画家だと考えられています。

 ブリュッセルに移ってから子供にも恵まれますが、6年後の1569年、ブリューゲルは病死してしまいます。現存する絵画作品40点余りは、1559年から亡くなるまでの約10年間で描かれています。

 ブリューゲルが亡くなった時、長男のピーテル(2世)は5歳、次男のヤンは1歳、ほかにマリアという娘、そしてマイケンのお腹の中には次女カタリーナがいました。

 ピーテル(2世)とヤンは後に画家として成功しますが、マイケンの母であり、ブリューゲルにとって姑にあたる、細密画の高い技術を持つ女流画家マイケン・ヴェルフルスト・ベッセメルスが彼らに絵を教えたと言われています。

 ピーテル(2世)は工房を構え、父の模写作品を数多く制作しました。そして花や果物といった静物画を得意とし、「花のブリューゲル」と呼ばれるヤンは独自の才能を発揮しました。さらに孫のピーテル3世、ヤン2世、曾孫たちも画家として活躍、ブリューゲル一族は約150年間、その才能を紡いだのでした。

参考文献:
『ブリューゲルの世界』森洋子/著(新潮社)
『ブリューゲルとネーデルラント絵画の変革者たち』幸福輝/著(東京美術)
『ピーテル・ブリューゲル ロマニズムとの共生』幸福輝/著(ありな書房)
『図説 ブリューゲル 風景と民衆の画家』岡部紘三/著(河出書房新社)『東京藝大で教わる西洋美術の見かた』佐藤直樹/著(世界文化社)
『ブリューゲル(新潮美術文庫8)』宮川淳/著(新潮社)
『ブリューゲルへの招待』小池寿子・廣川暁生/監修(朝日新聞出版)
『芸術新潮』2013年3月号・2017年5月号(新潮社)
『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝—ボスを超えて—』図録(朝日新聞社)
『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展公式ガイドブック(AERA Mook)』(朝日新聞出版)
『ブリューゲル展 画家一族150年の系譜』図録(日本テレビ放送網@2018) 他

筆者:田中 久美子

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