日本が誇るスイーツ、和菓子の源流を訪ねて

2023年7月24日(月)6時0分 JBpress

スイーツの進化と歴史(日本)

 前回の「新連載:ビジネスパーソン必読、スイーツの進化と歴史」「スイーツの進化と歴史:フランスが中心地になったわけ」に続き、今回は和菓子と日本のスイーツについて解説します。

 まず、和菓子の起源ですが、これには諸説あります。

 1つ目の説は、神話に見出せます。

 日本書紀によると、垂仁天皇の時代(西暦90年代)に田道間守(たじまもり)という人物が天皇より「中国から橘(柑橘類の一種)を取ってこい」という命を受けました。

 持ち帰った橘の木が植えられて、そこになった橘の実が和菓子の始まりだというものです。

 田道間守は今も菓祖神として各地の菓祖神社に奉られています。

 2つ目の説は、縄文時代にまで遡ります。

 当時の人々が木の実を粉砕、アク抜きしたものが団子の始まりであり、そこから中国や茶の湯の影響を受けながら長い時間の中で和菓子へと発展したというものです。

 3つ目の説は、唐菓子から発展したというものです。

 唐菓子とは、米粉や小麦粉などに甘葛(あまずら)の煮詰めた汁や水飴などを加えてこね、油で揚げられたものです。

 この唐菓子が豊作を願う際などに用いられ、これから和菓子が発展していったという説です。

 4つ目の説(個人的にはこれが一番好きな説です)は、和菓子は果物に由来し、その起源が干し柿だとするものです。

 1つ目の説に出てくる橘の実も果物ですし、今でも懐石料理に出てくる果物を水菓子と呼ぶなど菓子と果物は縁の深いものではあります。

 通常の柿ではなく、より甘くおいしいものにするためひと手間加えた干し柿が和菓子の起源ということに菓子職人魂をくすぐられます。

 実際、平安時代に完成した延喜式には干し柿が祭礼用の菓子として記載されています。

 さて、ここまでで和菓子の起源は様々ながら、その歴史はとても古いということが分かっていただけたでしょうか。

 では次に和菓子の発展について紹介します。


鎌倉時代〜安土桃山時代

 練り切りや饅頭といった現代の和菓子の原型が作られ、和菓子が飛躍的な成長を見せ始めたのは鎌倉時代になってからでした。

 その発展において大きな役割を担ったのが、当時、宋(現在の中国)へ留学していた僧侶たちです。

 彼らは、当時発展していた宋から経典などの新たな教養のほかにも最新の食文化を持ち帰りました。

 その中でも、和菓子の発展に大きく影響したのが、喫茶と点心です。

 今では和菓子と切っても切り離せない茶ですが、喫茶の習慣が日本に伝わったのは12世紀頃で、臨済宗の開祖である栄西によって宋から持ち込まれたのが始まりでした。

 その後、彼の記した「喫茶養生記」により茶の文化が全国に広まると、次第に茶と和菓子が一緒に供されるようになりました。

 鎌倉⇒室町⇒安土桃山と茶道が発展する中で、和菓子も同時に発展していったのです。

 では、次にその発展について詳しく紹介していきます。その上で触れないわけにいかないのが、先ほど喫茶に次いで挙げた点心の存在です。

 点心と言うと、中華まんや焼売などのスナックのイメージが湧きますが、本来の定義は「間食」のことです。

 禅宗などと共に日本に伝わった点心でしたが、当時の日本では仏教の影響で殺生を忌み嫌う風潮があったため、肉の代わりに餅や果物などが具材として加えられていました。

 しかし、その独自の発展を遂げた点心が、お茶と相性がいい「茶の子」として人気を博し出します。

 具体的には、鎌倉時代に、羹類、麺類などが、室町時代になると、わらび餅や葛餅などの餅類が茶味として用いられ始めました。

 そして、安土桃山時代には、北野での大茶会で練り羊羹が諸大名に披露されるなど、羊羹やおこし、みたらしに煎餅などが料理から離れ、菓子として扱われるようになっていきました。

 また、安土桃山時代には南蛮貿易の影響でポルトガル・スペインから金平糖やカステラなど、卵や砂糖がふんだんに使用された南蛮菓子が日本に持ち込まれました。

 それに伴い、原材料である砂糖も同時に輸入され、和菓子にも用いられ始めると、次第に菓子=甘いものという現代に通ずるイメージが形作られていったのです。

 しかし、当時の和菓子は、大名や京都の公家などの一部の上流階級のみが食べることができる非常に高貴なものでした。

 さらに、輸入品である砂糖も当時非常に高価な貴重品であったため、庶民には到底手の届く代物ではありませんでした。


江戸時代

 では和菓子はどのように普及・発展していったのでしょうか。

 まず、和菓子の普及に注目していきます。やはりここでもカギとなるのは砂糖です。

 江戸時代前期、砂糖は薩摩藩の支配下に入った琉球で生産され始めてはいたものの、大部分は輸入に頼っていました。

 そのため、砂糖の価格は依然として高く、和菓子や南蛮菓子は以前同様、大変高貴なものでした。

 しかし、江戸時代中期になると、貿易による金・銀・銅の海外への流出を危惧した幕府が、当時輸入額第2位であった砂糖の国産化を奨励し始めます。

 その結果、薩摩以外の西日本地域でもサトウキビの栽培が開始され「和糖業」が広まっていきました。

 実際、和菓子などによく用いられる四国の高級砂糖「和三盆」もこの時期に登場しました。こうして国内の砂糖生産量は年々増加していきます。

 その結果、全国的に商品・貨幣経済が展開した文化文政期(1804〜1830年)には国産品砂糖が輸入品を上回り、砂糖の価格も徐々に下がっていきました。

 しかし、それでも当時の砂糖の価格は1斤=銀4匁(現在価値にして1キロ=約1万円)と、依然として庶民の手が届くものではありませんでした。

 その後、幕末には砂糖の生産量が倍増したことで、価格は大幅に下がりました。

 そして、実際に砂糖や砂糖を使用した和菓子が庶民の間にも広く普及し始めたのは、日清戦争後にサトウキビの生産地である台湾を植民地としてからのことでした。

 では次に江戸時代の和菓子の発展について見ていきます。

 先の砂糖に関する説明から、和菓子はあまり普及することなく変化がなかったのかと、思われた方もいるかもしれません。

 しかし、その逆で江戸時代はまさに百菓繚乱の時代でした。

 戦乱の世が終わったことで、全国の菓子職人は城下町や門前町などで菓子作りに専念するようになり、菓銘や意匠に工夫を凝らした和菓子が各地で誕生しました。

 特に、京都を中心とした「京菓子」と江戸を中心とした「上菓子」が競い合うことで和菓子製造技術は大幅に発展し、現在食べられている和菓子の多くがこの時期に誕生したと言われています。

 また、安土桃山時代にオランダ・ポルトガルから伝わったカステラ、パン、ボーロなどの製法が全国に広まるなど、江戸時代は現在の製菓業の基礎が作られた時代でもありました。

 では、なぜ江戸時代はこんなにも和菓子が発展したのでしょうか。

 その理由は経済発展以外にも、主として2つあります。

 まず1つ目の理由は、交通網の発達です。

 江戸時代には、5街道を中心とした交通の発達・西廻り航路や東廻り航路を中心とした海上交通の発達により、全国各地の品物が江戸や大阪に集まり出しました。

 その結果、和菓子職人は、砂糖や米、麦、小豆、大豆などの和菓子の原料を以前よりも比較的容易に獲得できるようになり、多くの種類の菓子が製造できる土台が整いました。

 さらに、交通網の発達で、身分を問わず多くの人が旅できるようになると、寺社の門前や行楽地といった人々の多く集まる場所で菓子が売られ始め、各地で名物菓子が誕生しました。

 そして2つ目の理由が記録書の存在です。

 1つ目の理由にもあった通り、江戸時代になると人々は各地を旅するようになり、それに伴って旅人は各地で食したものを旅行記に記すようになりました。

 また、虎屋に代表される和菓子屋では、意匠を凝らした和菓子を菓銘とともに菓子絵図帳に記し、これが現在で言うカタログの役割を果たすようになりました。

 これらの結果、江戸時代の菓子職人は、旅行記や絵図長といった記録書でより多くの客の目を引くために、現代風に言えば映えを狙うために、新たな菓子をどんどん生み出していったのです。

これまでの連載:

新連載:ビジネスパーソン必読、スイーツの進化と歴史

スイーツの進化と歴史:フランスが中心地になったわけ

筆者:芝伐 敏宏

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