大作《バベルの塔》ほかブリューゲルが描いた聖書の世界、宗教画の概念を吹き飛ばし、技法を駆使した傑作を読み解く

2024年7月26日(金)8時0分 JBpress

「農民ブリューゲル」と称されたブリューゲルですが、じつは宗教を主題とした作品も少なくありません。しかしそれは宗教画の概念を吹き飛ばすような宗教画に見えない作品もあったのでした。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)


観る者を圧倒するふたつの《バベルの塔》

 ブリューゲルの代表作《バベルの塔》は3点あったと推定されていますが、現存しているのは2点で、ウィーンの美術史美術館とロッテルダムのボイマンス・ファン・ブーニンゲン美術館が所蔵しています。消失した絵はおそらくイタリア旅行時代に象牙の上に描いた最初の作品だとされています。ウィーンのほうがロッテルダムより2倍くらい大きいため、「大バベル」「小バベル」とも呼ばれています。

 両作品ともイタリア滞在中に見たコロッセウムを塔のモデルにし、アントウェルペン時代に構想を練っていたと考えられていますが、コロッセウムモデル説に異議を唱える研究者もいます。

 当時、アントウェルペンの街の至る所で建設工事が行われていたことから、ブリューゲルがその様子をつぶさに観察して描いたことが窺えます。建築ラッシュのアントウェルペンには最新の技術が集まっていたのです。人力で動くクレーンや回転ドラムなど当時使われていた最新の機材も精密に描かれています。船で資材が運ばれる様子から、料理や洗濯をする人の姿といった建築に関わる人々の生活までミクロに描き、実際の建設現場さながらの臨場感と建築の様子を表現した作品です。

 旧約聖書の「創世記」にあるバベルの塔の記述は、人間が天に達するほどの高い塔を建てようとしたことに神が怒り、それまでひとつだった人間の言葉を混乱させて通じないようにしたため建設工事を中止したという、人間の傲慢に対する戒めの物語です。

 当時のアントウェルペンも国際的な商業都市で、20人にひとりは外国人であったため、『7ヶ国語会話帖』という本が必読書だったそうです。まさに建築ラッシュとさまざまな言語が飛び交うアントウェルペンは、バベルの塔の建設と近い状況だったのかもしれません。

 ではふたつの作品を比較しながら見ていきましょう。塔の建設について、聖書には次のように書かれています。

 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

(「創世記」11:1−11:4 新共同訳 日本聖書協会)

 大バベルでは自然の岩山をベースに、切り出した石とレンガを積み上げていることから、白っぽい塔になっています。小バベルは焼成レンガを使っているため褐色です。塔は大バベルが8階、小バベルが10階まで建築中で、小バベルには雲がかかり、雲より高く建てられています。

 また、大バベルではこれまでの絵画の伝統にならい、塔の発注主であるニムロデ王を画面左下に描いていますが、小バベルでは存在しません。

 ふたつの作品の大きな違いは、塔が建っている場所でしょう。大バベルは都市の街並み風景、小バベルは農村の風景の中に建っています。また地平線が小バベルの方が低くなっていることから、より聳え立っている様子が伝わり、サイズは小さくともより威圧感が感じられます。1400人の人間や家畜まで描いています。

 このふたつの《バベルの塔》で、ブリューゲルはこれまでの宗教画の常識を覆し、細密な表現で観る者を圧倒したのでした。


群衆の中から主役を探せ!

 ブリューゲルの宗教画の特徴として、従来は中心に描かれてきた聖人たちがどこにいるかわからない、ということがあります。そのわかりやすい例が《十字架を担うキリスト》(1564年)でしょう。処刑が行われるゴルゴダの丘まで十字架を背負ったキリストがひかれていく場面を、ブリューゲルは大パノラマの中に描きました。

 画面右下には北方絵画の伝統的表現である嘆いている聖母マリア、ヨハネ、マグダラのマリアが描かれていますが、多くの兵士や農民、旅人に埋もれて、主役であるキリストがどこにいるか見つかりません。よくよく目を凝らすと場面中央に、十字架の重みに耐えかねて膝をついている姿が見つかります。

 ここでも第3回で紹介した「ブリューゲルのマッキア(染み)」が用いられています。馬に乗る兵士たちの赤いマントが「赤い染み」となって画面全体にちりばめられていることで視点が定まらず、キリストを見つけにくくしているのです。

 群衆の中に十字架を担うキリストを描くのはいくつか先例がありますが、これほど埋没させたのはこの作品だけです。また画面左側にはエルサレムの町が見え、右側には荒地が続きますが、右奥にはフランドルの農村が描かれています。こういった自然描写もブリューゲルらしい演出です。

《サウロの回心》(1567年)も主役が目立たない作品のひとつです。新約聖書にあるキリスト教弾圧に向かうサウロが神の啓示を受けて失明し落馬する画面ですが、多くの兵士に紛れてほとんど見えません。中央の馬の近くに倒れている顔もよくわからない青い服の男がサウロです。この絵も切り立った山と険しい崖という風景の存在が大きい作品です。

 《十字架を担うキリスト》《サウロの回心》に比べれば主役を見つけやすいのが、《ベツレヘムの人口調査》(1566年)です。

 ローマ皇帝アウグストゥスによる人口調査が行われ、ヨセフも許嫁のマリアとともにベツレヘムに向かうという聖書にある場面を描いた絵です。マリアはロバに乗り、ヨセフはロバを引いている姿で、画面前景中央に描かれています。

 しかしこれもベツレヘムではなく、スケートや雪合戦などする子供たちを描いたフランドルの冬景色です。画面右下で豚を屠殺しているのもこの地方の冬の風物詩です。雪景色を得意とするブリューゲルらしい作品です。

 このように諺など寓意を交えた表現や、写実的画風で独自の農民風俗を描き、風景画や宗教画、幻想画にも特異な才能を持った、北方ルネサンスを代表する多才な画家だと思います。ぜひ拡大しながら細かい部分まで味わってみてください。

参考文献:
『ブリューゲルの世界』森洋子/著(新潮社)
『ブリューゲルとネーデルラント絵画の変革者たち』幸福輝/著(東京美術)
『ピーテル・ブリューゲル ロマニズムとの共生』幸福輝/著(ありな書房)
『図説 ブリューゲル 風景と民衆の画家』岡部紘三/著(河出書房新社)『東京藝大で教わる西洋美術の見かた』佐藤直樹/著(世界文化社)
『ブリューゲル(新潮美術文庫8)』宮川淳/著(新潮社)
『ブリューゲルへの招待』小池寿子・廣川暁生/監修(朝日新聞出版)
『芸術新潮』2013年3月号・2017年5月号(新潮社)
『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝—ボスを超えて—』図録(朝日新聞社)
『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展公式ガイドブック(AERA Mook)』(朝日新聞出版)
『ブリューゲル展 画家一族150年の系譜』図録(日本テレビ放送網@2018) 他

筆者:田中 久美子

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