幕府はどのようにして攘夷実行に向かっていったのか?幕府を追い込む長州藩と土佐藩、家茂の上洛と大政委任の否定
2024年7月31日(水)6時0分 JBpress
(町田 明広:歴史学者)
朝廷に追い詰められる幕府
幕府は、未来攘夷(現行の通商条約を肯定し、富国強兵を果たした上での攘夷実行を志向)を標榜していたが、朝廷から即時攘夷(現行の通商条約を否定し、条約破棄のための目の前の攘夷実行に固執)を迫られ、できもしない破約攘夷を宣言するに至る。まずは、幕府が攘夷を実行せざるを得なくなった、具体的な経緯から話を始めたい。
日本と欧米列強5ヶ国との間に通商条約が結ばれたのは、安政5年(1858)である。それ以降、朝廷は即時攘夷(条約破棄)、幕府は未来攘夷(条約容認)と、国是(対外方針)はまさに2つに分断され、幕末の動乱が始まったのだ。
桜田門外の変によって、稀有な独裁者であった大老井伊直弼を失い、武力を盾にした強引な政治運営が無理であることを悟った幕府は、朝廷との融和路線を模索した。いわゆる、「公武合体」と言われるものである。幕府の武威は、もう光を失いかけていたことは誰の目にも明らかであった。
その最大の成果は、万延元年(1860)に実現した、井伊大老時代から画策された和宮降嫁の勅許であろう。孝明天皇の妹を14代将軍徳川家茂の正室に迎えることによって、幕府は朝廷の権威を借りて延命を図ろうとした。しかし、その代償は意に反して甚大なもので、岩倉具視の画策により、幕府は10年以内に通商条約を破棄し、攘夷を実行することを天皇に約束してしまったのだ。
幕府を追い込む長州藩・土佐藩
ここで、長州藩に目を向けてみよう。文久元年(1861)、直目付の長井雅楽が建白して藩論となったのが、航海遠略策である。これをひっさげて、長州藩は中央政局に登場し、国事周旋へ乗りだしたのだ。
これは、通商条約を容認して勅許の獲得を目指すものであった。そのため、東アジア的華夷思想にもとづく朝貢貿易をあたかも実現できると謳っていた。つまり、孝明天皇を欺くトリックが潜んでいたのだ。
しかし、同じ藩内から反対意見が噴き出し、その急先鋒であった久坂玄瑞による廷臣への入説の結果、孝明天皇自身もこのトリックに気が付き、勅許を得ることは叶わなかった。その結果、長州藩は一気に即時攘夷に突き進むことになる。
文久2年(1862)になると、航海遠略策を捨てて藩是を即今破約攘夷に転換した長州藩と、武市瑞山に率いられた土佐勤王党に牛耳られた土佐藩によって、中央政局はまさに攘夷一色に席巻されていた。朝廷においても、姉小路公知をはじめとする下級廷臣が、改革派廷臣を形成して、朝廷の方針を決定する朝議を支配し、とうとう幕府に攘夷実行を迫ることになったのだ。
朝廷は攘夷実行を迫るために、三条実美と姉小路公知を江戸に派遣し、12月5日には、とうとう将軍家茂に国是を攘夷と決めさせた。その上、至急の上洛を求め、その際には攘夷実行の方策を奏聞(天皇に申し出ること)することを約束させた。もう、幕府も後には引けない状況に追い込まれた。
将軍家茂の上洛と大政委任の否定
このころの京都は、天誅と称する暗殺が横行し、幕府の権威などはあったものではなかった。幕府は京都守護職を創設し、その治安維持に努めることになった。そこで、初代守護職に任命されたのは、会津藩主の松平容保であった。そして、疾風怒濤のように吹き荒れた即今破約攘夷運動は、文久3年(1863)春には、その沸点に達した。
この間の朝廷は、破約攘夷(通商条約を破棄して攘夷を実行)を主張し、かつ、将軍家から政権を取り戻す天皇親政を求める即時攘夷派の廷臣によって、朝議が乗っ取られていた。さらに、国事掛、国事参政・寄人という政策機構の創設、学習院による言路洞開および出仕制度による尊王志士の取り込み、御親兵という軍事力の常備が図られていた。
このような不穏な空気の中、将軍家茂は3月4日に上洛し、孝明天皇に拝謁して、これまで通りの大政委任を奏聞した。これに対し、天皇自身はそれを望んだものの、即時攘夷派に与する関白鷹司輔熙は、征夷大将軍はこれまで通りとしながらも、国事については、直接諸藩へ沙汰するとの勅書を渡したのだ。
将軍上洛によって、奉勅攘夷(勅命を謹んで受け、攘夷にまい進すること)は確認されたものの、大政委任は事実上否定され、委任されたのは征夷大将軍としての職能にとどまった。つまり、将軍の役割は国政全般ではなく、攘夷実行に限定されたのだ。攘夷以外の国事は、朝廷より沙汰するというもので、大政委任をすべての範囲で欲していた幕府とは、自ずと齟齬が生じた。
攘夷期限の確定と方法の曖昧さ
また、攘夷そのものについても、その期限や策略に関して、幕府から具体的な奏聞はなく、しかも征夷大将軍を委任した朝廷が、攘夷に関しても勅命を発した。そのため、これ以降、朝廷・幕府それぞれから命令が発せられる、政令二途が先鋭化して諸藩を悩ませ、中央政局を混乱させる主因となったのだ。
攘夷実行の期限については、幕府はその明言を拒みつづけた。しかし、4月20日、追い詰められた家茂は、5月10日と奏聞するに至った。しかし、当初は朝幕ともに、「襲来候節ハ掃攘致シ」(「上洛日次記」)と布告しており、まさに襲来打払令である。
たしかに、期限は明示されたものの、文字通り解釈すれば、外国から攻めてきた場合は、打ち払うことを命じており、単なる通船はその対象とならないはずである。しかしながら、その策略については、依然として曖昧であった。
次回は、鳥取藩による攘夷実行とその後の対応について、詳しく紹介するとともに、結果として、その事件が無二念打払令にまで発展し、政令二途が先鋭化する事態に至った経緯を追ってみたい。
筆者:町田 明広