開戦の備えは? 山本五十六に航空本部長が明かした衝撃的な状況

8月5日(木)6時0分 JBpress

 アメリカとの戦争が避けられなくなる中、山本五十六が航空軍備の現状について航空本部長に尋ねると、返ってきたのは衝撃的な答えだった──。現代史家・大木毅氏が、山本五十六の“軍人”としての能力に切り込んだ『「太平洋の巨鷲」山本五十六』(角川新書)。その一部を抜粋・再編集して、「悲劇の提督」山本五十六にまつわる知られざるエピソードをお届けする。(JBpress)


政府の拡張政策を憂慮

 日本が急速に戦争に向かうなか、山本五十六は、ただ傍観しているしかなかった。1940年11月に、軍人として最高の階級である大将に進んでいたとはいえ、「戦力行使者」(軍隊を実際に使う役割)の典型といえる連合艦隊司令長官の職にある身としては、職掌外の業務である政治に容喙(ようかい)するわけにはいかなかったのである。

 もとより、山本五十六は、対米戦争を望んでいたわけではない。むしろ、準備もなく、腰も定まらないままに、機会主義的に拡張政策を続ける政府の姿勢に憂慮していたとみてよかろう。

 山本が、親交のあった国粋大衆党の総裁笹川良一に宛てた、有名な1940年1月24日付の手紙には、こういう一節がある。「併(しか)し、日米開戦に至らば、己が目ざすところ、素よりグアム、比律賓(フィリピン)にあらず、将又布哇(はたまたハワイ)、桑港(サンフランシスコ)にあらず、実に華府(ワシントン)街頭白亜館(ホワイトハウス)上の盟ならざるべからず、当路の為政家、果たして此本腰の覚悟と自信ありや」(『大分県先哲叢書 堀悌吉資料集』、第一巻)。すなわち、日米戦争が開始されれば、首都ワシントンまで攻めていって、講和させるぐらいの覚悟がなければならないが、今日の為政者たちにそんな真剣さはあるのかという慨嘆である。


進まない軍戦備

 逓信省航空局長小松茂の回想からもわかるように、山本五十六は、機材の生産補充や搭乗員の養成能力拡大も含む航空戦力の充実によって、アメリカとの戦争にも成算が得られる、もしくは、その威力によって同国を抑止できると考えていたものと推測できる。海軍次官と航空本部長を兼任していた時代に、「航空の整備充実さえやってくれれば、対米作戦は大丈夫だ、どうか、航空基地を充分整備して、基地航空部隊の活躍し得るように準備してください」と発言していることも、その傍証となろう(渡邊幾治郎『史傳山本元帥』)。

 現実の戦争において、日米の国力・生産力がかけ離れていることを見せつけられた後世のわれわれにしてみれば、山本もいささか楽観が過ぎるのではないかと思われ、用兵思想から検討する際には減点となるのだが、彼にとっては、新時代の戦力である航空軍備こそが、旧態依然たる海上決戦では勝ち目がないなか、唯一の光明、ひたすらすがるべき手段だったのかもしれない。

 しかし、山本の希望が充たされることはなかった。1940(昭和十五)年9月15日の三国同盟締結をめぐる海軍首脳部の「会議」に際して、海軍軍戦備の未成を訴えた山本が一顧だにされなかったことはすでに記した。明けて1941年7月、南部仏印進駐決定後の情勢について説明を受けるため、古賀第二艦隊司令長官とともに上京した山本は、より深刻な事態に直面することになる。

 及川海相、1941年4月に伏見宮後任として軍令部総長になった永野修身大将、1940年10月に航空本部長に就任した井上成美中将に迎えられた山本は、何よりもまず航空軍備の現状について尋ねた。井上の答えは衝撃的なものだった。

「航(空)本(部)は一生懸命やっていますが、思う様に進まず、正直な所、航空魚雷、徹甲爆弾等、山本長官の次官の時から、殆(ほと)んど見るべき進展はありません。その上、今度の仏印進駐の動員で、重要工員の応召による影響は重大です」

 憂慮すべき状態であることを聞かされ、今度は古賀が質問する。

「斯様な重大なことを、艦隊長官の考えもきかずにかんたんに決め、万一戦になって、さぁやれと艦隊に言われたって、勝てませんよ。(中略)一体今度の事に対する軍令部のお考えはどうなのですか」

 これに答えた永野の言葉は無責任きわまりないものであった。

「政府がそう決めたんだから仕方がないだろう」(井上成美伝記刊行会『井上成美』所収「思い出の記」)

 これでは山本も、軍戦備不充分なまま、巨人アメリカと対決するのかと震え上がらずにはいられなかったろう。


戦争回避の努力

 しかるべき航空戦力を主体として、対米戦にのぞむという山本の望みは断たれた。もし、旧態依然たる軍備に頼るしかないのであれば、アメリカとの戦争は必敗ということになる。そのような勝ち目のない戦争は何としても避けなければならない。

 だが、山本の思いをよそに、日米関係は悪化の一途をたどっていた。石油禁輸措置を受けた日本において、対米戦やむなしとする議論が、みるみる力を得てきたのだ。陸海軍ともに、南部仏印進駐が招いた苦境にあって、このままではじり貧だという危機感にさいなまれ、戦争を選ぼうとしているのだった。

 かかる状況下、近衛文麿首相も非常の決断をせざるを得なくなった。8月4日、自らアメリカに乗り込み、ローズヴェルト大統領と直接会見して、日米和解をもたらしたいと、陸相・海相に持ちかけたのである。海軍の賛成と、陸軍の一応の同意(同格の大統領以外、たとえばハル国務長官などを相手にするのであれば、会談を拒否するなどの留保を付していた)を得た近衛は、ローズヴェルト大統領に打診する。結果は上々で、大統領からは会見場所や時期に関する示唆も得られたため、近衛は8月28日に頂上会談を行いたいと、アメリカ側に正式に申し入れた。

 9月12日、山本五十六は、再び近衛と会見している。右の頂上会談が実現した場合には、山本は総理の随員となる予定だったのだ。近衛から、交渉がまとまらなかった場合の海軍の見通しを訊かれた山本は、「それは、是非私にやれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れて御覧に入れます。しかしそれから先のことは、全く保証出来ません」と、およそ1年前に近衛と会談したとき同様に、長期戦はできないことを強調し、外交に全力をつくすよう、懇請した。

「もし戦争になったら、私は飛行機にも乗ります、潜水艦にも乗ります、太平洋を縦横に飛びまわって決死の戦をするつもりです。総理もどうか、生やさしく考えられず、死ぬ覚悟で一つ、交渉にあたっていただきたい。そして、たとい会談が決裂することになっても、尻をまくったりせず、一抹の余韻を残しておいて下さい。外交にラスト・ウォードは無いと言いますから」

(阿川『山本五十六』、文庫版、下巻。なお、山本と近衛の諸会談については、海軍史研究者の横谷英暁による論文「検証近衛文麿・山本五十六会談」が、巷間伝えられている以上の内容があったことを示唆しているが、ここでは従来確認されてきたことのみに拠って記述した。)

「外交にラスト・ウォードは無い」とは、山本の切望をよくあらわした言葉といえよう。航空戦力を主兵として、正攻法の対米総力戦を行おうにも、その準備は遅々として進まない。となれば、戦略・作戦次元でいかに策を練ろうとも、勝利はきわめて困難であるから、ここは政治によって戦争を回避してもらわねばならないのだった。

 さりながら、山本はもう、海軍次官のときのように政治に介入できる立場にない。今の連合艦隊司令長官の職掌としては、中央への意見書、もしくは要路の人物への私信によって、かぼそい抗議の声を上げるほかなかったのである。

筆者:大木 毅

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