朝ドラ『虎に翼』主人公のモデル・三淵嘉子、日本初の女性弁護士の前半生「高価な花嫁切符」を捨て法律の道へ

2024年8月5日(月)8時0分 JBpress

NHK連続テレビ小説『虎に翼』は、日本史上、初めて誕生した女性弁護士の一人にして、初の女性判事、初の女性裁判所長となった三淵嘉子をモデルとするオリジナルストーリーである。

SNSでも話題で、大変に評価が高いため、途中から視聴をはじめた方も少なくないだろう。

途中から視聴した方も、初回から視聴している方も、これから視聴する方も、よりドラマを楽しめるように、伊藤沙莉が演じる主人公・猪爪寅子のモデル三淵嘉子の人生を、ご紹介したい。

なお、ドラマのタイトル『虎に翼』は、中国、戦国時代末期の法家で思想家の韓非(生年不詳〜紀元前233、234年頃)の論文集『韓非子』「難勢」に登場する言葉で、「もともと強い者に、さらに強さが加わる」ことのたとえである。

文=鷹橋 忍 


シンガポールで生まれる

 主人公・猪爪寅子のモデル三淵嘉子(旧姓「武藤」、最初の結婚後「和田」、再婚後「三淵」)は、大正3年(1914)年11月13日に生まれた。

 父は武藤貞雄(ドラマでは岡部たかしが演じた猪爪直言)といい、東京帝国大学法科を卒業したエリートだ。

 母は武藤ノブ(信子/ドラマでは石田ゆり子が演じた猪爪はる)といい、父も母も香川県丸亀市の出身である。

 台湾銀行に勤めていた貞雄は、ノブと結婚してすぐにシンガポールに転勤となり、妻とともに赴任した。

 嘉子はこのシンガポール滞在時に生まれており、嘉子の「嘉」の一字は、シンガポールの漢字表記「新嘉坡」に由来する。


兄はいない

 ドラマの猪爪寅子には上川周作が演じた猪爪直道という兄が存在したが、嘉子に兄はいない。

 嘉子は第一子であり、後に長男の一郎、次男の輝彦、三男の晟造、四男の泰夫という、四人の弟が誕生する。

 大正5年(1916)、嘉子が2歳の頃、父・貞雄はニューヨークに転勤となった。

 嘉子と母・ノブは貞雄の赴任地へは行かず、丸亀のノブの実家で、数年間を過ごしている。

 ノブは良妻賢母で、躾には厳しいほうだったという(三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追憶のひと三淵嘉子』所収 平野露子「心に生きる嘉子さん」)。

 大正9年(1920)、貞雄は東京勤務を命じられ、帰国した。

 嘉子たちも東京に移転し、渋谷区を経て、麻布笄町(港区麻布地区に存在した旧町名/嘉子の家は現在の港区西麻布四丁目)の借家で、両親や四人の弟たちとともに暮らした。


価値ある花嫁切符を捨てて、法律の道へ

 昭和2年(1927)4月、嘉子は競争率・約20倍の狭き門を突破し、東京女子高等師範学校附属女学校(現在のお茶の水女子大附属高校)に入学した。

 入学して間もなく、嘉子には四人の友人に恵まれた。

 そのうちの一人である堀きみ子の追想文によれば、嘉子は正義感がとても強く、他人の苦しみや悲しみに寄り添い、親身になって解決策を考えるような人物であった。

 いわゆる「ガリ勉」ではなく、学生生活を謳歌し、卒業時には総代を務めたという(『追憶のひと三淵嘉子』所収 堀きみ子「青い鳥のチルチル」)。

 当時は進学や就職をせず、花嫁修業をしつつ見合い結婚する女性もまだ多く、東京女子高等師範学校附属女学校の卒業証書は、「一流の花嫁切符」とも称されていた(青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』。

 だが、嘉子は卒業が近づくと、この時代としては非常に進歩的な考えを持っていた父・貞雄のアドバイスを受け、法律を学ぶ決意を固める。

 昭和7年(1932)4月、嘉子は明治大学専門部女子部(明治大学短期大学の前身)の法科に入学した。

 明治大学女子部は法科と商科の二科があり、昭和4年(1929)に開校した。創設の中心人物の一人・穂積重遠は、ドラマで小林薫が演じた穂高重親のモデルではないかといわれる。

 女性に門戸を開く大学がほとんどないなか、明治大学女子部法科を卒業すれば明治大学法科への編入が認められていた。

 嘉子の入学時はまだ、明治26年(1893)年に執行された弁護士法において、「日本臣民ニシテ民法上ノ能力ヲ有スル成年以上ノ男子タルコト」と定められており、弁護士資格が許されていたのは男性のみであった。

 しかし、昭和8年(1933)、嘉子の女子部入学の翌年、弁護士法が改正され、女性の弁護士資格も認められるようになり、昭和11年(1936)から、女性も高等試験司法科の受験が可能となった。 


女性初の弁護士に

 嘉子は昭和10年(1935)3月、明治大学専門部女子部法科を卒業すると、同年4月、明治大学法学部に進んだ。嘉子、20歳の時のことである。

 昭和13年(1938)3月、明治大学法学部をトップの成績で卒業し、卒業式では総代を務めたという(清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』)。

 同年11月に高等試験司法科をはじめて受験し、筆記、口述試験ともに突破。

 田中正子(のちの中田正子)、久米愛とともに、初の女性合格者となった(三人とも明治大学の出身)。

 嘉子は弁護士試補として、丸の内の仁井田益太郎の弁護士事務所での修習を終えた後に、昭和15年(1940)12月、第二東京弁護士会に弁護士登録。

 これをもって正式に、初の女性弁護士が誕生した。嘉子は26歳になっていた。

 嘉子は引き続き、仁井田益太郎の弁護士事務所で勤務することとなった。

 また、同年7月1日に、明治大学専門部女子部法科の助手にもなっている。

 弁護士としての道を歩みはじめた嘉子だが、戦争の影響で、弁護士の仕事は激減してしまう。後述する結婚や出産も重なり、弁護士は開店休業となった。


短い結婚生活と戦争の嵐

 嘉子は、昭和16年(1941)11月5日に結婚した。

 ドラマの寅子の結婚相手は仲野太賀が演じた佐田優三であったが、嘉子の相手は武藤家で書生をしていた和田芳夫である。

 嘉子の二番目の弟・武藤輝彦の追想文によれば、和田芳夫は父・貞雄の中学時代の親友の従弟だ。

 貞雄の関連会社で働くかたわら、明治大学夜間部を卒業した努力家で、「周囲をながめて、最も好人物」であったという(『追憶のひと三淵嘉子』所収 武藤輝彦「あしあと」)。

 嘉子は「和田嘉子」となり、夫の芳夫と池袋のアパートで新婚生活をスタートさせた。

 だが、昭和18年(1943)1月1日に長男の和田芳武が誕生すると、嘉子の実家である麻布笄町の家で、嘉子の家族と同居するようになる。

 嘉子と芳夫は睦まじく、戦時中ではあったものの、幸せな日々を送っていたようだ。

 翌昭和19年(1944)2月には、麻布笄町の借家が、空襲による延焼を食い止めるための家居強制疎開の対象となったため、嘉子らは港区の高樹町に居を移した。

 同年6月には、武藤家の長男・一郎が、妻子を残して戦死している。

 同年8月、嘉子は明治女子専門学校(明治大学専門部女子部から改組)の助教授に昇進したが、翌昭和20年(1945)1月、夫の芳夫が召集され、上海へと渡った。

 同年3月には、幼い我が子・芳武と、亡き弟・一郎の妻と娘の四人で福島県坂下町(現在の河沼郡会津坂下町)に疎開した。

 嘉子は自ら鍬を振るい、田畑を耕すなど、生き延びるために必死で働いた。


相次ぐ家族の死

 同年8月15日、終戦を迎えると、嘉子は5月の空襲で被災し、川崎市へ移った両親のもとに戻った。

 嘉子は明治女子専門学校の教壇に立ち、講義をするようになったが、苦難は続く。

 昭和21年(1946)5月23日には、夫の芳夫が復員することなく、長崎の陸軍病院で病死。

 翌昭和22年(1947)1月19日には母・ノブが脳溢血でこの世を去り、同年10月28日には父・貞雄も他界しまったのだ。

 嘉子は、『追憶のひと三淵嘉子』所収の遺文「私の歩んだ裁判官の道——女性法相の先達として——」において、「夫が戦病死したので、経済的自立を考えなければならなくなった。それまでのお嬢さん芸のような甘えた気持から真剣に生きるための職業を考えたとき、私は弁護士より裁判官になりたいと思った」と述べている。

 同年3月、嘉子は司法省人事課に赴き、「裁判官採用願」を提出した。

 これを受け取ったのが、人事課長で、のちに最高裁判所長官となる石田和外である。石田は、松山ケンイチが演じる桂場等一郎のモデルではないかといわれる。

 嘉子は裁判官への道に、大きな一歩を踏み出した。

筆者:鷹橋 忍

JBpress

「女性」をもっと詳しく

「女性」のニュース

「女性」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ