波多野一族の本拠地とされる波多野城、城らしい痕跡は確認できない「幻の城」が根付いた理由

2024年8月9日(金)6時0分 JBpress

(歴史ライター:西股 総生)


波多野荘を地盤とした波多野一族

 神奈川県西部に位置する秦野市(はだのし)は、丹沢の山裾にひらけた小さな盆地である。その盆地の北寄りあたりに、波多野(はたの)城址と呼ばれる場所がある。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、波多野荘を地盤とした波多野一族の本拠地とされる場所だ。

 小田急線の秦野駅北口から藤棚方面行のバスに乗り、東農協前で降りると、小学校の方へ入る道の所に標識がある。これに導かれて歩けば、城址はすぐだ(城址には駐車場がなく駐車は自己責任になるので、現地を訪れるならバス利用をお勧めする)。

 波多野城址は、丹沢の山裾が金目川によって開析されてできた南北300メートル、東西100メートルほどの独立した台地である。西側には金目川が流れ、東側はその支流の旧流路が天然の空堀のようになっていて、なかなかの要害と見える。

 波多野荘の実態は史料がないのでよくわからないが、おそらく波多野氏の開発した土地を中心として、秦野の盆地を荘域としたものだろう。平安時代における在地領主の開発は、河川の上流部や山裾から始められる場合が多いから、城址のある一帯が波多野氏の本拠だとする見方は頷ける。

 下って、戦国末期。関東侵攻を策す豊臣政権は、北条氏配下の主だった武将の兵力や持ち城を書き上げた調査書を作成した(『毛利家文書』)。その文書には、大藤(だいとう)長門守が相模の「田原の城」を守備していることが報告されている。

「田原」は波多野城址のすぐ西の地名だし、大藤氏が波多野に所領を持っていたことは、北条側の史料でも確認できる(『北条氏所領役帳』)。相模国内には他に該当しそうな城もないので、この「田原の城」は波多野城址を指しているとする説もあった。

 ……と、こんなふうに書いてくると、波多野城の存在はほぼ確定的に思える。平安末期以来の波多野氏の屋敷が要害としてすぐれていたため、拡張・改修されて、戦国時代まで城として使われ続けた……そんふうに考えて差し支えないように思えるだろう。

 ところが、である。


「田原の城」は城ではない?

 波多野城址をいくら踏査しても、土塁や堀らしい痕跡は全く見出すことができない。また、1987〜90年にかけて秦野市教育委員会が断続的に実施した発掘調査でも、城らしい痕跡は確認できなかった(『波多野城址発掘調査報告書』1991)。

 東側の旧河道の底から鎌倉期の陶磁器が若干出土したものの、城域と考えられてきた台地上面には、20か所の試掘坑を調査したにもかかわらず、中世の遺構・遺物は全く引っかからなかったのだ。波多野氏は一族が領内の各所に屋敷を構えていただろうから、この近くにも誰かの屋敷があったのではないか、というくらいしかいえないのである。

 さらに、例の豊臣政権の調査書も、実態とかなりかけ離れていることが現在ではわかっている。「田原の城」は、実際には大藤長門守の在所を書き上げているだけで、城というわけではないらしい。豊臣政権の情報収集・分析力を、過大評価してはいけないのだ。

 一方で、波多野城址の西方1キロほどの丘陵地にある東田原中丸遺跡からは、中世初期〜戦国時代に至る遺構や遺物が見つかっている。波多野氏や大藤氏の屋敷を宛てる場所としては、こちらの方が妥当だろう。

 波多野氏一族の本拠や大藤氏の屋敷が、秦野盆地の北のあたりにあったことは間違いなさそうだ。では、それが具体的にどこか、と考えたとき、いかにも要害な場所がある、これこそ城址だ……といった具合に、「波多野城」という幻が生まれたようだ。

 なお、東田原中丸遺跡はとくに整備されているわけではないが、隣接して源実朝首塚(これも伝説だが)や農産物直売所(蕎麦屋が併設)などがある。波多野城址と併せて、田原一帯の田園風景と伝説を楽しみながら、ゆるりと散策すると楽しい。

[参考図書] 神奈川県下の城跡に興味のある方は、西股総生・松岡進・田嶌貴久美著『神奈川中世城郭図鑑』(戎光祥出版)をお手元にどうぞ!

筆者:西股 総生

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