【冤罪濃厚だった死刑囚】無念すぎる…235通の書簡から“恐怖の凄絶獄死”全容が判明! シベリア帰りの富山常喜の苦しい生涯

8月13日(日)17時0分 tocana

富山が獄死した東京拘置所

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 死刑囚が冤罪を訴え続け、死刑執行されないまま獄死する例は案外少なくない。有名なのは帝銀事件の平沢貞通や名張毒ぶどう酒事件の奥西勝だが、2003年に東京拘置所で獄死した富山常喜(享年86)もその1人だ。富山が獄中から支援者の男性に出していた手紙により、その凄絶な獄中生活がつまびらかになった。


■証拠が何もないのに死刑に

 1963年の8月下旬のある日、茨城県波崎町(現・神栖市)で農業を営んでいた36歳の男性が自宅で突如苦しみ出し、搬送先の病院で死亡した。この事案をめぐり、殺人などの容疑で検挙されたのが富山だった。

 富山は当時46歳。茨城県の那珂湊市で暮らし、魚類や野菜を入れる「木箱」の販売やラジオの修理業で生計を立てていた。警察は富山が死んだ男性の生命保険の受取人になっていたことなどから、保険金目当てで男性に青酸化合物を飲ませ、殺害したと断定したのだ。

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 だが実際には、富山は男性に多額の金を貸していたため、借金の取りっぱぐれがないように一時、男性の生命保険の受取人になっていたものの、事件前に保険会社に解約を申し入れていた。それにもかかわらず、保険会社側がノルマのため、富山に内緒で契約を継続していたというのが真相だった。裁判では、男性の死因が本当に青酸化合物による毒殺なのかについても疑問が呈せられ、決め手となる有罪証拠は無いに等しかったという。

 富山の支援団体「波崎事件対策連絡会議」の代表・篠原道夫(87)はこういう。

「富山さんは理屈っぽいところがある人で、よく交番や市役所に文句を言いに行っていたため、警察にいやがられていたようです。そんな経緯もあり、この事件では警察から犯人だと決めつけられたみたいです」

 富山は一貫して無実を訴えながら、1、2審共に死刑判決を受け、1976年に最高裁で死刑が確定してしまう。証拠が何もないことについて、裁判では「絶対に証拠を残さない、いわゆる完全犯罪を試みんとしたものとも見るべき」(1966年に宣告された水戸地裁土浦支部の死刑判決より)と判断されたのだ。


■毎朝、死刑執行の恐怖に脅えていた

 富山は戦時中、徴兵されて朝鮮半島で国境警備にあたり、戦後はソ連の捕虜になって数年間、シベリアに抑留されていた。シベリアで過酷な強制労働に耐え抜いただけあり、精神力は強い人物だったようだ。篠原はこう言う。

 「だからこそ取り調べで脅かされても自白せずに耐え抜けたのだと思います」

 だが、死刑が確定すると、富山も強気のままではいられなかったようだ。ある時、篠原に宛てた手紙で次のように書いている(以下、〈〉内は富山の手紙より引用。原文ママ)。

 〈土、日曜、祝祭日の外は来る日来る日の毎日が、ガチャガチャと扉を開けられる度びに、心臓が破裂するのではないかと思へるほどの恐怖心を味わわされる地獄の連続であり、若しも寿命を計る機械がありましたなら、恐らくは確実に毎日毎日相当の寿命を擦り減らされているのではないかと思います〉(1987年12月29日消印)

 死刑が執行される際、死刑囚本人にそのことが通達されるのは当日の朝だ。それゆえに死刑囚たちは毎朝、生きた心地がしないと言われるが、富山も例外ではなかったのだ。

 筆者は一昨年、冤罪死刑囚たちが獄中でしたためた書画を紹介した『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』(鹿砦社)という本を制作した際、この手紙をはじめ、篠原が獄中の富山からもらった計235通の書簡を見せてもらった。それには、富山の死刑囚としての日々が克明に記録されていた。


■病気に苦しんだ獄中生活

 富山は再審請求を2回行っているが、1987年11月に2回目の再審請求をした時は70歳になっていた。この頃から高齢と長い拘禁生活のために次第に体を弱らせていったが、篠原に宛てた手紙には病状が次のように綴られている。

 〈よく昔から「布団が重いと言い出したら、その病人は助からない」と云われておりますが、今の私が正にその状態で、布団どころか着るもの自体が吐き気、息苦しさの元凶で、出来たら裸で寝たいくらいです〉(1994年11月7日消印)

 〈近頃右目が殆んど見えなくなり、字を書いていてもペン先が二重に見えてしまい読みづらいと存じます〉(1998年8月?日消印 ※日は印がかすれて判読不能)

 こうした体力の衰えと共に富山の手紙は次第に弱気な記述が目立つようになっていく。83歳になった2000年頃以降は手紙に死期を意識したことも書くようになった。

 〈二〇〇〇年を期に新たに仕切り直しということになりそうですが、私の残り時間は益々心細くなるばかりで焦燥は隠せません〉(2000年1月16日消印)


■十分な医療を受けられずに獄死

 迫る死期に焦る中、富山にとって生きる希望は再審で無罪を勝ちとることだった。しかし2013年3月、2度目の再審請求が東京高裁に棄却されてしまう。富山はその失望をこう綴っている。

 〈才判所より再審棄却の通知が参りました。例によって検察官の意見書に副った形式的なもので或る程度予想はしておりましたが、改めてがっかりさせられてしまいました〉(2000年3月27日消印)

 ペンを持つ手も重い。そんな思いがにじみ出た文章だ。

 富山はこの後、気力、体力をさらに奪われていく。そしてついに病舎に移され、寝たきりの生活となった。篠原によると、富山との面会は面会室ではなく医務室で行われるようになったという。

 〈毎日の呼吸不全状態、胃部の異状な膨満感など尋常ではありませんので、何かもっと精密な器械での検査が欲しいところです〉(2002年7月8日消印)

 この手紙を書いた頃、富山は人工透析治療を受けるようになっており、自分で手紙を書く気力もなく拘置所職員に代筆してもらうこともあった。そして次のように書かれたはがきは富山が生前、篠原に送った最後の便りとなった。

 〈いつも心づかいありがとうございます。面会、差入と感謝しております。弁護士さんについては、後日元に戻ったときに連絡等する予定です〉(2002年8月27日消印)

 このはがきの表面を見ると、文字が激しく波打っている。震える手で、まさに命を削りながら書いた文章だったのだろう。

 弁護団や支援者は容態の悪化した富山を助けようと東京拘置所長や法務大臣に対し、医療設備の整った拘置所外の病院に移送するよう要請したが、実現しなかった。そして富山は満足な医療を受けられないまま、2003年9月3日午前1時48分、拘置所で永眠。享年86歳。死因は「慢性腎不全」と発表された。


■まだ雪冤を諦めない支援者たち

 こうして雪冤を果たせぬまま、無念の死を遂げたシベリア帰りの死刑囚・富山常喜。だが、死後14年近く経った今も篠原ら支援者はまだ富山の雪冤を諦めていない。

「再審請求は本人が亡くなっても遺族が行えるので、なんとか遺族に請求人になってもらいたいと考え、動いています」

 遺族らの協力を得るのは簡単ではなく、苦戦しているようだが、篠原らは定期的に会合を開き、戦略を練っているという。3度目の再審請求が実現する可能性はまだ残されている。
(取材・文・写真=片岡健)


※写真は、富山が獄死した東京拘置所

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