『光る君へ』雨乞いで力尽きた安倍晴明ゆかりの地・広沢池へ。京都のお盆といえば、8月16日に行われる「五山送り火」と灯籠流し
2024年8月15日(木)11時0分 婦人公論.jp
広沢池から見た「五山の送り火」のひとつ「鳥居形」と遍照寺の灯籠流し(撮影◎筆者)
NHK大河ドラマ『光る君へ』の舞台である平安時代の京都。そのゆかりの地をめぐるガイド本、『THE TALE OF GENJI AND KYOTO 日本語と英語で知る、めぐる紫式部の京都ガイド』(SUMIKO KAJIYAMA著、プレジデント社)の著者が、本には書ききれなかったエピソードや知られざる京都の魅力、『源氏物語』にまつわるあれこれを綴ります。
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前回「『光る君へ』まひろと道長、子を授かった石山寺、まひろがつけていた赤い帯って?いけにえの姫・彰子とイメージが重なる女三の宮。彼女が好んだ「桜かさね」の細長など、平安装束の美にふれる」はこちら
『源氏物語』誕生の瞬間が近づいてきた
『光る君へ』第30回は、地味な狩衣を着た道長(柄本佑)が、人目を忍んでまひろ(吉高由里子)を訪ねるというドキドキの場面で「つづく」となりました。
オリンピックの中継で次の放送は8月18日。早く続きが観たいのに、と、“お預け”状態でやきもきしている方も多いのではないでしょうか。
次回はついに、物語執筆の依頼へと話が進みそう……。『源氏物語』誕生の瞬間が近づいてきたようです。
安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)の“予言”どおり、『源氏物語』を生み出すまひろが道長を照らす光となるのか——。だとすれば、『光る君へ』というタイトルが示すものは何か。それも気になります。
ドラマが始まる前は、「光る君」は光源氏のことだと単純に考えていました。ストーリーが進むにつれて、「なるほど、道長(そして彼をモデルにした光源氏?)のことかな」と思っていたのですが、ひょっとすると、まひろ自身が「道長にとっての光である」という意味も含まれているのかもしれませんね。
その光は、明るい陽の光ではなく、闇夜を照らす月の光に似たものか……。などと、勝手に考察して楽しんでいます(外れていたらすみません)。
命がけの「雨乞い」で一気に老け込んだ晴明も、そろそろ天命が尽きそうな気配。遺言のごとく、道長に啓示を与えたように思えます。
晴明の墓所はどこにある?
その安倍晴明ゆかりの地としては、何といっても、上京区にある晴明神社が有名です。
創建は1007年。85歳で晴明が没してから2年後のことで、その偉業を讃え、御霊を鎮めるため、一条天皇の命によって、晴明の屋敷跡に社殿が設けられたのです。
「魔除け」「厄除け」の神社として知られていますが、晴明を主人公とした小説やマンガ『陰陽師』のファンや、羽生結弦さんのファンも(彼の代表的なプログラムが『SEIMEI』だというつながりで)多数お参りに訪れています。
境内には約2000株の桔梗が植えられています。なぜ桔梗かというと、同神社の社紋「晴明桔梗」が桔梗の花をモチーフとしているから。「晴明桔梗」は「五芒星」とも呼ばれ、あらゆる魔除けの呪符(じゅふ/さまざまな災禍を防ぎ、幸運や幸福をもたらすと信じられている物)として陰陽道で用いられてきたそうです。
映画『陰陽師』シリーズなどで、呪術を使うシーンに登場するため、「晴明といえば五芒星」というほどよく知られた印。鳥居の額をはじめ、晴明神社の境内でも、あちこちでこの社紋を見かけます。
嵐山・渡月橋のほど近くにある安倍晴明の墓所
では、その晴明のお墓は京都のどこにあるか、ご存じでしょうか。
意外なことに、晴明神社からかなり離れた、嵯峨嵐山にあるのです。
実は、晴明の墓所と伝わる場所(晴明塚)は全国に何ヵ所かあるそうです。なぜかというと、稀代の陰陽師のパワーが悪用されるのを恐れ、本当の墓所がどこなのか、わからないようにしたのだとか。
しかし、これほど年月が経てば、隠す必要もないということなのでしょうか。嵯峨の墓所は、現在、晴明神社の飛び地境内となっており、晴明神社が認めた、いわば“公式の墓所”といえそうです。
訪れる人もほとんどいない静かな墓所
一説では、晴明は死後、嵯峨に葬られたとされているので、このお墓は、その伝承とも矛盾しません。その後、年月とともに荒廃していましたが、1972年、現在の形に整えられたようです。
墓所の入口には「陰陽博士 安倍晴明公 嵯峨御墓所」との石碑が。お墓とはいえ、神道式に鳥居もあり、五芒星こと「晴明桔梗」も刻まれています。
安倍晴明のお墓、墓石には五芒星が
こじんまりとした墓所ですが、春には河津桜が彩りを添えます。おそらく、晴明神社近くにある「一条戻橋」が河津桜の名所であることを意識したのでしょう。
晴明は、自分が操っていた式神(陰陽師が使役する鬼神)を一条戻橋の下に住まわせていた——そんな逸話もよく知られています。『光る君へ』では、晴明の従者、須麻流(すまる)が式神を想起させる役回りのようですが、須麻流は橋の下に住んでいるわけではなさそうです。
晴明神社近くの一条戻橋と河津桜 橋は平安時代と同じ場所に架かっているという
常に多くの人が訪れる晴明神社とは対照的に、こちらのお墓は閑静な住宅街のなかにあり、お参りに来る人もほとんど見かけません。あの有名な安倍晴明のお墓とは信じられないほど。おそらく、『陰陽師』ファンにもあまり知られていないのではないでしょうか。
渡月橋にも近く、多くの観光客が行き交うエリアではあるのですが、駅に向かう道から脇に入った場所なので、まったく目につかないのです。私も、犬との散歩の途中にたまたま見つけて、「なぜ、こんなところに?」と不思議に思っていました。調べてみると、やはり、あの晴明のお墓だったというわけです。
Google Mapにもしっかり載っているので、気になる方は、嵐山観光の途中に、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
晴明伝説の舞台となった遍照寺
嵯峨嵐山近辺にある、知る人ぞ知る名所をもうひとつ紹介しましょう。それが広沢池と遍照寺。紫式部にも、安倍晴明にも、ゆかりのある場所です。
大覚寺の南東に位置する広沢池は、以前、この連載でも紹介した大覚寺境内の大沢池と同様に、平安時代から月見の名所として知られていました。歌枕になるほど風光明媚な場所で、平安貴族たちは、ここで月見を楽しみ詩歌を詠んだのだそうです。
広沢池は別名・遍照寺池とも呼ばれ、もともとは遍照寺の庭池として造営されたとか(8世紀からあった灌漑用の池を拡張したとも伝わる)。広大な広沢池が庭池ということからも、遍照寺全体の規模が窺えるというもの。池の向こうにそびえる山も遍照寺山と呼ばれています。
遍照寺は、989年、宇多天皇の孫、寛朝僧正が、池のほとりの山荘を寺院にしたもので、数々のお堂が並ぶ壮大な寺院でした。その全盛期は紫式部が活躍した時代と重なり、寛朝僧正の祈祷によって円融天皇(一条天皇の父帝)の病を治すなど、歴代朝廷との関係も強かったようです。
また、『宇治拾遺物語』や『今昔物語』は、遍照寺と安倍晴明にまつわる、こんな逸話を伝えています。
寛朝僧正に教えを乞うため、晴明が遍照寺を訪ねた折のこと。若い貴族や僧侶たちに「式神をお使いになるなら、人を殺せますか」と問われた晴明は、「虫などは殺すことができますが、生き返らせる方法を知りません。仏道の罪になるので、たやすくは殺せません……」などと答えました。しかし、僧侶たちは引き下がらず、「カエルで試してみてください」とけしかけます。そこで、晴明が草の葉を投げると、カエルはまっ平らにつぶれて死んでしまったのです。
『光る君へ』の晴明はこういう呪術は使いませんが、実際はどうだったのでしょう。以前は安倍晴明と聞くと、野村萬斎さんの顔が浮かんだのですが(最新版は山崎賢人さんですね)、最近はユースケさんが真っ先に頭に浮かびます。大河ドラマの影響力、おそるべし、です。
広沢池の夏の風物詩 お盆の灯籠流し
平安時代末期から鎌倉時代になっても、広沢池は観月の名所として愛されました。たとえば、『小倉百人一首』の選者、藤原定家はこんな歌を残しています。
「散る花に 汀(みぎは)のほかの 影そひて 春しも月は 広沢の池」
山影を映す池。高い空。飛び交うサギ……。このあたりの田園景色は、今でも平安時代の面影を残しているといわれます。池を囲むように植えられた桜並木も美しく、散策にはうってつけの場所。私も犬を連れて、広沢池のあたりをよく散歩するのですが、「この景色を道長や紫式部も見たのだろうか……」と、いにしえの昔に思いを馳せています。
ただし、現在、池畔に遍照寺の痕跡を見つけることはできません。寛朝僧正亡きあと、寺院は次第に衰退し、応仁の乱で廃墟に。幸い、江戸時代後期に復興されたそうです。
現存する遍照寺は、広沢池から少し南に下った住宅街にあります。お寺の場所は変わっても、毎年、お盆には、「広沢池といえば遍照寺」と思わせる行事が行われます。それが、遍照寺の灯籠流しです。
京都のお盆といえば、8月16日に行われる「五山送り火」が有名です。全国的に知られているのは、東山に浮かび上がる「大」の字ですが、ほかにも松ケ崎の「妙・法」、西賀茂の「船形」、左大文字山の「大」(左大文字)、そして嵯峨の「鳥居形」があり、それぞれに趣と風情があります。
「送り火」は単なるイベントではなく、お盆にお迎えした精霊を冥界へと送る仏教行事。ご先祖さまの精霊が無事に帰れるよう、あの世へと通じる道を照らす意味で始められたといわれています。
嵯峨嵐山界隈では「鳥居形」がよく見えますが、この「送り火」の夜に、広沢池では灯籠流しが行われるのです。
ご先祖さまの名前を書いたお札を乗せた、色とりどりの灯籠を池に流して、僧侶の読経とともに供養する。池なので、流すというよりも、水面に漂うという感じなのですが、慰霊の灯籠の灯りの揺らめきと、夏の夜空に浮かぶ「鳥居形」の「送り火」が、なんとも厳かで美しいのです。
同じ夜、渡月橋付近でも灯籠流しが行われていて、観光客にも人気があります。ですが、広沢池のほうが、落ち着いてご先祖さまを見送ることができる気がします。
薄幸な女性「夕顔」のモデルとは
「五山送り火」の起源には諸説があり、始まった時期もよくわかっていないようです。大文字については「平安時代初期に空海が始めた」との説があるものの、俗説の域を出ないとか。おそらく、紫式部が生きていた頃には、まだ始まっていなかったのではないでしょうか。
しかし、遍照寺には足を運んだ可能性が高そうです。
現在の遍照寺の山門
最後に、遍照寺と紫式部にまつわるお話をひとつ。中秋の名月の夜、村上天皇の皇子である具平親王(ともひらしんのう)は、寵愛する妾、大顔を連れて、お忍びで遍照寺に出かけました。
ところが、月見の最中に、大顔が物怪にとりつかれて、命を落としたのです。
そのとき、紫式部は20歳。具平親王と親しかった紫式部や父・為時は、この話にたいそう衝撃を受けたそうです(紫式部と為時は具平親王の遠縁にあたり、二人は親王家によく出入りしていたとか。また、為時が親王家に仕えていたという説もあります)。
学才にも優れた高貴な具平親王に対して、大顔は親王家に仕える雑仕係にすぎません。身分違いの悲恋は、『源氏物語』の「夕顔」のエピソードの土台になったともいわれています。なるほど、大顔と夕顔、名前もなんとなく似ています。さらに、具平親王は光源氏のモデルの一人とも考えられているのです。
夕顔は、物語の序盤、第4帖に登場します。この逸話が正しいとすれば、紫式部が『源氏物語』を書き始めた当初から、夕顔のストーリーの構想は頭のなかにあったのでしょう。
架空の人物にもかかわらず、夕顔は読者に愛され、夕顔が住んでいたとされる下京区夕顔町には「夕顔の碑」まで建っています。
そんな魅力的なキャラクターを、『光る君へ』のまひろはどのように描き出していくのか。いよいよ作家・紫式部が動き出します。
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