古代マヤ文明の滅亡は戦争が原因ではなかった?破壊的な戦闘行為が長く繰り返されていた可能性(米研究)

8月16日(金)20時30分 カラパイア

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image by iStock

 グアテマラ北部の3分の1を占めるペタン地区のウィッツナ考古学遺跡周辺で、研究者らが新たに象形文字の書かれた石碑を発見したらしい。

 未だ謎に包まれている古代マヤ文明が滅亡した原因が本当は何だったのかについて、この石碑がヒントを与えてくれるかもしれないとして注目を集めている。

 これまで干ばつで食糧が不足したため王国間の戦争が激化したせいで衰退したと考えられていたが、もしかするとそれよりずっと以前からかなり破壊的な戦争が行われていた可能性があるという。
・1000年以上前に古代マヤ文明が滅亡してしまった原因とは?

 古代マヤ文明は、現在のメキシコ南部と中米北部のドイツの2倍ほどの地域に広がっていた。

 その最盛期は、紀元250年から少なくとも900年くらいまでの古典期と呼ばれる時期で、2500万人が暮らしていたと思われ、これは中世ヨーロッパの人口に匹敵すると言われている。

 1000年以上前に滅んだが、その原因は謎に包まれている。人口が壊滅的に減ったとみられ、繁栄を誇った町々の廃墟が今や見る影もなくジャングルと化している。

 研究者たちは、滅亡のさまざまな原因をあげているが、どれも決定的なものはない。

 干ばつが危機的な水不足を引き起こしたせいかもしれないし、農地開拓のための森林伐採が、肥沃な表土が失われるのにつながったのかもしれない。

 また、争いが激しくなり、殺し合いを繰り返したことが衰退に拍車をかけたという説もある。
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ライダー(レーザー光による検知・測距装置)調査で示された、マヤ儀式の中心地全体。ラグナ・エクナーブ(白い部分)を見下ろす石灰岩の尾根に沿って2キロに渡
ってのびている。ラグナ・エクナーブは、マヤの古環境研究のためのサンプルを採取した湖。
image byFrancisco Estrada-Belli, PACUNAM & Tulane University

・一般市民を巻き込んだ破壊的な戦闘行為が行われていた可能性も

 従来の研究では、古典期の古代マヤ文明間での戦争はもっぱら儀式化されていたというのが定説だった。

 範囲が限定的で、貢物や身代金のために高官を捕虜にするとか、一般市民など非戦闘員は極力巻き込まないなど厳格な取り決めがあったのだ。

 だが古典期末期のマヤでは兵士だけでなく一般庶民も巻き込んだかなり破壊的な戦闘行為、つまり無差別な総力戦を行っていたことが分かったようだ。その結果、町が徹底的に破壊されたというのだ。


・町を破壊したり王族を井戸に投げ込んだりの情け容赦ない総力戦

 カリフォルニア州メンローパークの米地質調査所(USGS)の地理学者デヴィット・ウォール氏によると、

破壊行為で町は徹底的に破壊され、王族は連れ去られ、井戸に投げ込まれたり、儀式の中心地に埋められたりした。私たちは初めて、古典期のマヤの攻撃の広範な影響の状況がつかめてきた。マヤがとった手段が地元住民にマイナスの結果を及ぼしたことが分かる

とのこと。

 現在、古代マヤはこれまで考えられていたのよりずっと早くこうした情け容赦ない総力戦を行っていた可能性があるという考えが主流になってきている。


・ウィッツナ考古学遺跡周辺で新たに発見された象形文字の石碑

 研究者たちが新たな発見をしたのは、ウィッツナ考古学遺跡周辺で過去の環境変化を調べていたときのことである。

 ウォール氏は、

この研究の最大の難関は、特にペタン地区の現場での作業がほとんどでしたが、とても辺鄙なところにあるということ。ラグナ・エクナーブ湖までの道路はなく、100mもある険しい断崖をすべての機材や装備を運び込んだり下ろしたりしなくてはならなかった。

湖の周囲には植物が生い茂り、草をかきわけて道を切り開いて水辺にたどり着き、サンプル調査のための橋脚を建てるのに、8人のスタッフで3日間もかかった。

胸の深さの水の中に立って鉈をふるわなくてはならなかったこともあったが、水辺にたどり着いたら今度はたくさんのワニがこちらの動きをじっと見ているのに警戒しなくてはならなかった

と苦労を語る。

 その甲斐あってか、思いがけずここで象形文字の書かれた石碑を発見。町の王に捧げられた碑で、「バラム・ホル」というマヤの都市の名前が刻まれており、統治のシンボルである雷神・カウィールの錫杖(僧が持ち歩く杖)と、拘束された捕虜の盾とともにあったそうだ。

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・攻撃を受けて焼失してしまったマヤの都市「バラム・ホル」

 以前、ウィッツナの南32kmにあるマヤの都市・ナランホで発掘作業をしたときに別の石碑が見つかっていて、そこには紀元697年に「バラム・ホル」が二度目の攻撃を受け、焼かれたと記されていた。

 さらにウォール氏らは、ウィッツナに隣接する湖の堆積物から、大規模な火災があったことを示す3cmの炭の層を発見した。

 これは1700年分の堆積物の中でもっとも厚く、この炭の層の炭素年代測定を行ったところ火災は7世紀の最後の10年の間に起こっていることが判明。ナランホの石碑の内容を裏づけていることが分かった。


・徹底的に破壊された建築物が大規模な戦争体験を物語る

 王宮や象形文字の刻まれた碑など、ウィッツナのおもな建築物が徹底的に破壊されていたことは、この場所が大規模な戦争を経験したという説を裏づけている。

 ウォール氏らは、7世紀が終わるまでの湖の堆積物が、農業の痕跡や燃えた名残など、人間の多くの活動の跡を示していることも発見した。

 しかし、これらの痕跡は攻撃されたと推測されている時期の後では激減している。ウィッツナで見られる破壊の跡は古典期の終わりに見られたものを思い出させるが、違いもある。

 これについてウォール氏は、
古典期の終わりには王族は殺されるか追放されたが、攻撃の後もその血は残って続いていた可能性がある。しかしウィッツナでは、古典期末期に見られるように、町は完全に消し去られてしまった

とコメントしている。


・苛烈な戦争が長く続いていたのかもしれないマヤ文明社会

 「バラム・ホル」が焼かれたことを表現するのに使われた「puluuy」というシンボルは、別のマヤの都市でも見られたことがある。

 これは、町を徹底的に焼き払うこうした行為は、古代マヤの戦争では普通のことだったことを示している。

 全体として見ると、こうした発見は古代マヤの繁栄や高度な芸術性がピークに達していたときでさえ、すでにこのような破壊的な総力戦が行われていたことを示していて、これがマヤ文明の衰退の日々において特異なことだったとする説に異を唱えている。

 逆に言うと、マヤ文明の崩壊の原因として、これまで言われていたほど戦争が決定的な役割を果たしていなかったということなのかもしれない。

 論文の共著者であるニューオリンズ・テュレーン大学のフランシスコ・エストラーダ=ベリ氏は

こうした証拠を踏まえて、比較的穏やかな社会から暴力的な総力戦へと移行したことが、マヤ文明社会の崩壊の主な原因だったとする説はもはや現実的ではない。すでに苛烈な戦争はずっと以前から行われていた社会だったのだから。ほかの決定的な理由を探さなくてはならない

と語っている。

 この研究の詳細は8月5日、Nature Human Behavior誌のオンラインに発表されている。

References:Live scienceなど / written by konohazuku / edited by parumo

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