橘奈良麻呂の変より復活を遂げた橘氏、仁明天皇に不真面目さを嘆かれ改心、出世と遂げた橘岑継(みねつぐ)の生涯
2024年8月20日(火)6時0分 JBpress
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より橘氏の官人、橘岑継です。
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清友の女・嘉智子が皇后に
久々に橘氏の官人を取り上げることとしよう。『日本三代実録』巻四の貞観(じょうがん)二年(八六〇)十月二十九日乙巳条は、岑継(みねつぐ)の薨伝を載せている。
正三位行中納言橘朝臣岑継が薨去した。岑継は、贈太政大臣正一位清友(きよとも)朝臣の孫であって、右大臣贈従一位氏公朝臣の長子である。氏公(うじきみ)朝臣は、これは仁明(にんみょう)天皇の外舅である。
岑継を産んだのは、これは仁明天皇の乳母である。故に天皇が東宮であった時、藩邸に伺候して、やや寵幸を蒙った。岑継は身長が六尺余り、腰囲はやや大きく、性格は寛緩であった。少年の頃は愚鈍で、文書を好まなかった。天皇はその才が無いのを見て、嘆いて云ったことには、「岑継は、門地はこれは大臣の孫で、帝の外戚の家である。もしも才識が有れば、公卿の位は願えば叶うであろう。どうしてその書を読まないことが甚しいのか」と。岑継は秘かに聞いて、心に恥じて恐縮し、すぐに節を改めて精神を励まし、師に従って書伝を受学し、ほぼ趣旨に通じた。
天長(てんちょう)六年、内舍人となった。天長七年、常陸少掾に任じられ、相模権掾に遷った。天長九年正月、従五位下に叙された。天皇が即位した初め、天長十年三月、右近衛少将となった。父の氏公は右近衛大将であった。これによって、遷任されて左兵衛佐となり、左近衛少将に遷った。承和(じょうわ)三年正月、従五位上を授けられ、丹後守となった。承和六年正五位下に加叙された。承和七年、従四位下を授けられ、兵部大輔に拝任された。左近衛少将と丹後守は、並びに元のとおりであったが、左近衛中将に転任された。
承和十一年正月、参議に拝任された。承和十三年、右衛門督・相模守となった。承和十四年、従四位上に進められた。その年冬十二月、母の憂いによって解任されたが、承和十五年二月、天皇は詔して情を奪い、本官に復帰した。嘉祥(かしょう)二年正月、従三位を授けられた。五月、権中納言に拝任された。斉衡(さいこう)二年、爵を進められたて正三位となった。斉衡三年、中納言に拝任された。薨去した時、行年は五十七歳。
橘氏は、大王敏達(びたつ)の子孫で、左大臣となって政権を担った橘諸兄(もろえ)を祖とする。しかし藤原仲麻呂(なかまろ)と対立し、諸兄は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)八年(七五六)に失脚、嫡子の奈良麻呂(ならまろ)は天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(七五七)の政変で獄死したとされる。奈良麻呂の子たちも連坐したものと思われるが、末子の清友は奈良麻呂の変の直後に生まれたため、罪を赦された。
清友は正五位上内舎人で終わっており、このままでは名族橘氏も絶滅するかと思われたが、清友の女である嘉智子(かちこ)が桓武(かんむ)天皇皇子の神野(かみの/賀美能)親王(後の嵯峨[さが]天皇)に入侍し、弘仁元年(八一〇)に正良(まさら)親王(後の仁明天皇)を産んだことから、運命が好転した。嘉智子は弘仁六年(八一五)に皇后に立てられた。
正良親王は弘仁十四年(八二三)に立太子し、天長十年(八三三)に即位した。この間、嘉智子の異母兄である氏公も、天長十年に参議、承和五年(八三八)に中納言、承和九年(八四二)に大納言、承和十一年(八四四)に右大臣と累進した。
岑継は延暦二十三年(八〇四)、この氏公の嫡男として生まれた。母は天皇の乳母の田口真仲(たぐちのまなか)。仁明興味深いのは、嘉智子の生母も岑継の生母(つまり氏公の嫡妻)も、田口氏の女性であったことである。
田口氏というのは蘇我馬子(そがのうまこ)の弟から始まった蘇我氏の同族を称する氏族で、大和国高市郡田口村(現在の橿原市和田町から田中町にかけて)を本拠とした(倉本一宏『蘇我氏』)。
大化(たいか)元年(六四五)に蘇我田口川堀(かわほり)が古人大(ふるひとのおお)兄王子の「謀反」に、大化五年(六四九)に田口筑紫(つくし)が蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)の「謀反」に、それぞれ関わったことによって、その家門は衰微していったが、律令制成立以後、中級官人を輩出する母胎として復活した。
そして嘉智子を産むという僥倖(ぎょうこう)を得たことによって、田口氏は仁明の外祖母(がいそぼ)氏ということになり、平安時代に入ってからも、それなりの格を保ち続けた。仁明天皇は即位した際に、外祖父清友と外祖母田口氏(嘉智子の母)に正一位を追贈している。なお、仁明外祖母の田口氏の墓は、『延喜式』諸陵寮には「小山墓」として見え、それなりの規模と格を与えられていたようである。現在、大阪府枚方市田口三丁目の「田ノ口」バス停の横に、それと称するささやかな墓が存在する。
摂関期にも、田口氏は下級官人としてではあるが史料に現れる。また、平安中期の詩文家である有名な紀斉名(きのただな)は、本姓は田口氏であった。田口氏の末裔は阿波国で武士化し、源平の闘乱で屋島に仮内裏を置いた平家方に味方したり、南都諸寺院の焼き討ちで先陣を務めたり、壇ノ浦(だんのうら)合戦で平家を裏切って源氏方についたりして、一族は阿波一円に広まり、阿波(あわ)・田内(たうち)・桜庭(さくらば)氏が分流した。
それはさておき、岑継は生母が正良親王の乳母であった縁で、正良に近侍して寵幸を得た。身長六尺(一八〇センチ)余りもあり、腰囲が大きく、性格は寛緩であった。ただし幼い頃より愚鈍で、学問を好まなかったとある。それを仁明天皇が嘆いたのを聞いて心に恥じ、心を改めて学問に励んだという。
天長六年(八二九)に二十六歳で内舎人、天長七年(八三〇)に蔵人に補され、常陸少掾、次いで相模掾に任じられた。天長九年(八三二)に二十九歳で従五位下に叙爵され、相模権守に任じられた。
翌天長十年(八三三)に右近衛少将に任じられたが、父の氏公が右近衛大将に任じられたため、左兵衛佐、次いで左近衛少将に遷任された。その後、位階を昇叙され、承和七年(八四〇)に従四位下に叙され、兵部大輔を兼任し、右近衛中将に昇任した。この年、三十七歳。
そして承和九年(八四二)に蔵人頭に補され、承和十一年、ついに四十一歳で参議に任じられ、公卿に上った。この年、氏公は右大臣に任じられており、父子揃って公卿に名を連ねたことになる。
この間、承和十四年(八四七)十二月に、氏公が死去し、岑継も母の憂いによって解任されたが、翌承和十五年(嘉祥元年.八四八)二月、仁明天皇の恩情によって、本官に復帰した。そして嘉祥二年(八四九)に四十八歳で従三位に叙され、権中納言に任じられた。
斉衡三年(八五六)に五十五歳で中納言に上ったが、これが極官となった。すでに仁明天皇が嘉祥三年(八五〇)三月、嘉智子もこの年の五月に死去しており、岑継がその恩顧に頼ることもできなくなっていた。
すでに藤原良房が承和十五年に右大臣、斉衡四年(八五七)に太政大臣に上り、その権力を確立していた。岑継は貞観二年、五十七歳で薨去した。時の天皇は良房の同母妹の順子(しゅんし)から生まれた文徳(もんとく)天皇であった。
岑継の子としては、清蔭(きよかげ)の名が知られるが、官位は正四位下侍従・少納言に過ぎず、以後、この系統から公卿が出ることはなかった。
筆者:倉本 一宏