今年で86歳、現役「氷の職人」髙橋二男の軌跡、空前のスケートブーム、札幌オリンピックで苦労したこと
2024年8月29日(木)8時0分 JBpress
文=松原孝臣 撮影=積紫乃
映画を観るかスケートを滑るか
髙橋二男(ふたお)はパティネレジャーのスタッフとしてスケートリンクの設営作業に従事し、60年以上を超える。
まさに人生を費やしてきたと言っていい業務に就くことになったのは、まずはスケートと出会ったことにある。
「今は東京ドームになっていますが、私はあそこのそばに住んでいたんですよ。そこに『後楽園アイスパレス』というスケート場がありました」
後楽園アイスパレスは1971年に解体された。今は東京ドームシティ内の建物になっている。
そのスケート場に通い、スケートを楽しんでいた。
「当時は遊ぶものと言えば、映画を観るかスケートを滑るかくらいしかありませんから。だからスケートをする人は多かったですね。もうブームと言っていいくらいでした」
スケートが流行っていたというのは、後楽園アイスパレス近辺にスケート靴を扱う店がいくつも並んでいたという事実にも表れている。
「スケートの靴を売っている店が5、6軒ありましたね」
その店の1つが人生を大きく変えることになった。
「たまたま寄った店の人と懇意になりました。そこにいた方に、『仕事にしないか』とお話いただいて、最初はバイトで入りました。21歳のときでしたかね」
それまで、思い描いていた将来があったわけではなかった。
「私の住んでいるところは、製本屋さんというのが多かったんですよ。ふつうの家庭の中でも製本を仕事としているくらいで、そのアルバイトもしていました。ただこれになりたい、とか考えているものはなかったですね」
スケート用品の店でアルバイトを始め、やがて入社する。その店を運営する会社はスケート靴の販売に加え、スケート場の管理運営も手がけるようになっていった。現在のパティネレジャーの前身である。
本格的に行うことになったのが、晴海国際貿易センターにつくられたリンクだった。
「自動車ショーなどをやっていたところで、ショーが終わったあと、小田急電鉄さんがスケートリンクをつくったんですよ。その運営と管理を会社が任されました」
1960年冬季にオープン。以降、1970年初頭まで冬季シーズンに営業していたスケート場だ。
「それがほんとうにやりがいがありましたね。多くのお客さんが来られて、夜でも大行列でした」
資料によると、オープンした1960年の冬季には約72万人の来場者があったという。当時のスケート熱を物語っている。多くの人々が押し寄せ、スケートを楽しむ。その光景がやりがいになったと語る。
リンクの設営については「見様見真似もありましたし、後楽園のリンクの方など知り合いがいましたので、いろいろ聞いたり、そのようなことでやりました」。
その後も「御殿場ファミリーランド」につくられたスケート場の運営管理を請け負うなどいくつも手がけ、ノウハウも蓄積されていった中で出会ったのが1972年の札幌オリンピックだった。
札幌オリンピックでの試行錯誤
フィギュアスケートの会場は2カ所あったが、フリーが行われた真駒内屋内競技場を担当した。
「あのときは4カ月、札幌にいました」
と振り返る。
「カラーテレビが最初に出た頃で、中継の関係で明るさは1400ルクスはないと駄目だということになりました。リンクの上に立っていますと、照明がつくと頭が温まるくらいでした。競技の合い間ですとか、製氷の間は照明を落としてもらうなど、氷の管理のためにいろいろ試行錯誤をしてなんとか乗り切ったのを覚えています」
試合では、リンクサイドで選手たちの演技を見守った。強く印象に残っているのは、ジャネット・リンだと言う。
「アメリカの選手ですが、人気が大変ありました。その選手が目の前で転んだ瞬間というのは忘れられませんね」
1998年の長野オリンピックでは、「ちょうど定年だったので、私は一緒に参加したぐらいなものでした」。
定年を迎えたあとは、「ちょっと遊んでました。ゴルフ場のアルバイトなどもしてみたことはありました」と言う髙橋は、リンクに戻ることになる。
2006年のトリノオリンピックで荒川静香が金メダルを獲得。各地のスケート教室に多くの希望者が殺到したように一大ブームを巻き起こした。同時にアイスショーの開催が増えた。2007年には東京体育館で世界選手権開催を控えてもいた。そのため髙橋も呼び戻されることになったのだ。
「戻るのをためらうことはなかったですね」
と笑う。
現場に復帰し、数々の大会やアイスショーに携わり続け、今がある。(続く)
筆者:松原 孝臣