『光る君へ』三条天皇(居貞親王)の生涯、一条天皇より年上の皇太子、道長との対立の原因、4人の妃との仲は?
2024年9月2日(月)8時0分 JBpress
今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、木村達成が演じる居貞親王(三条天皇)を取り上げたい。
文=鷹橋 忍
冷泉上皇の第二皇子
三条天皇は円融朝の天延4年(976)正月3日に、冷泉上皇の第二皇子として生まれた。
母は、段田安則が演じた藤原兼家の娘・藤原超子である。
諱を居貞(おきさだ)と定められ、天元元年(978)11月、数えで3歳の時に、親王宣下を受けた(以後、即位までを居貞親王、即位後は三条天皇と表記)。
母・超子は居貞親王出産後も、貞元2年(977)に為尊親王、天元4年(981)に敦道親王を産んでいる。
天皇より年上の皇太子
居貞親王の父・冷泉上皇は、安和2年(969)に、同母弟の坂東巳之助が演じた円融天皇に譲位し、皇太子には、冷泉上皇の第一皇子で、居貞親王の異母兄・本郷奏多が演じる師貞親王(のちの花山天皇)が立てられた。
以後、皇統は「冷泉系」と「円融系」に分かれ、交互に天皇位を継いでいく。
円融天皇は永観2年(984)8月に譲位し、皇太子の師貞親王が17歳で花山天皇となった。
次の皇太子には、懐仁親王が立てられた。
懐仁親王は、円融天皇と円融の女御である吉田羊が演じた藤原詮子(藤原兼家の娘)の間に生まれた皇子で、のちの一条天皇である。
花山天皇は寛和2年(986)6月、19歳の時、出家を遂げ、退位する(寛和の変)。皇太子の懐仁親王が7歳で即位し、一条天皇となった。
この時、皇太子に定められたのが、居貞親王である。居貞親王は11歳、一条天皇より4歳年上だった。
皇太子が天皇より年長というのは、異例なことだった。
こうして、25年にもおよぶ、居貞親王の長い皇太子時代がはじまった。
いじらし過ぎて、疎ましい? 最初の妃・綏子
皇太子となった居貞親王に、永延元年(987)9月、祖父・藤原兼家の三女の藤原綏子(母は藤原国章の娘/道長の異母妹)が入侍した。居貞親王12歳、綏子14歳の時のことである(倉本一宏『三条天皇——心にもあらでう世に長らへば——』)。
歴史物語『大鏡』第四巻「太政大臣兼家」によれば、綏子は容姿に優れ、兼家からも大変に可愛がられていた。
居貞親王も当初は「憎からぬもの」と思っていた。
だが、居貞親王が、「私を愛しているのなら、『もうよい』と言うまで放さないように」と氷を持たせたところ、手が青黒くなるまで持っていたので、「いじらしさの度が過ぎて、疎ましく思うようになった」という。
二人の間に子が産まれることはなかった。
綏子は長徳年間(995〜999)頃、為平親王の第二皇子・源頼定との密通が露見し、内裏から退出。
寛弘元年(1004)2月7日に、31歳で薨去した(『権記』同日条)。
二人目の妃 藤原娍子
永祚2年(990)7月、一条天皇の外祖父として、権勢を誇った祖父・藤原兼家が死去した。居貞親王は有力な後見を失ったことになる。
翌正暦2年(991)、居貞親王は朝倉あきが演じる藤原娍子(すけこ)を、二人目の妃に迎えた。居貞親王は16歳、藤原娍子は20歳だった。
娍子は、当時、大納言だった藤原済時の娘だ。
済時は藤原師尹(兼家の叔父)の子で、当時の公卿社会における序列は第七位。地位も門流もそれほど良くはない(倉本一宏『三条天皇——心にもあらでう世に長らへば——』)。
だが、居貞親王は娍子を大変に寵愛した。
娍子は正暦5年(994)に、居貞親王の第一皇子となる敦明親王を出産している。
翌長徳元年(995)には、娍子の父・藤原済時が死去し、娍子の後ろ盾が完全になくなった。
それでも、居貞親王の寵愛は続き、娍子は合計で四男二女を産んでいる。
この娍子の存在が、のちに道長との対立を生むことになる。
三条天皇の誕生
長徳元年(995)正月には、井浦新が演じた関白藤原道隆の娘・原子(一条天皇の中宮・高畑充希が演じた定子の同母妹)が入侍した。
原子は居貞親王から寵愛されたが、姉・定子の崩御から二年後の長保4年(1002)に亡くなってしまう。
寛弘7年(1010)2月、居貞親王は、時の権力者である道長の次女・姸子を、皇太子妃に迎えた。
居貞親王は35歳、姸子は17歳と、親子ほど年齢が離れていた。
道長としては冷泉系の皇統が存在する限り、婚姻関係を結ばざるを得ず、有力な後見をもつ妻がいない居貞親王にとっても、受け入れるしかなかったという(編者 樋口健太郎・栗山圭子『平安時代 天皇列伝』所収 高松百香「三条天皇——反摂関政治の種をまく」)。
翌寛弘8年(1011)、いよいよ、居貞親王の長い皇太子時代に終止符が打たれる日が訪れる。
同年5月、病に倒れた一条天皇は、6月13日、居貞親王に譲位したのだ。三条天皇の誕生である(以後、三条天皇と表記)。
皇太子には、敦成親王(のちの後一条天皇)が立てられた。敦成親王は、見上愛が演じる藤原彰子(道長の娘)と故一条天皇の間に生まれた子である。
11歳で皇太子となった三条天皇は、36歳になっていた。
道長との対立
翌寛弘9年(1012)2月、皇太子妃であった姸子は、中宮に立后した。
三条天皇は姸子を中宮としたものの、四男二女をもうけた藤原娍子も皇后として立后させている。
娍子の亡父・藤原済時は大納言にすぎず、後見もない娍子が立后するなど、宮廷社会の常識では考えられないことであった。
だが、三条天皇は寵愛する娍子が産んだ皇子を皇太子にするために、娍子を皇后とする必要があったと考えられている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』 西野悠紀子「第四章 藤原道長 ——紫式部と王朝文化のパトロン」)。
この一帝二后により、三条天皇と道長の間には深刻な亀裂が入り、関係は悪化しという(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』)。
やがて姸子は懐妊し、長和2年(1013)7月6日、禎子内親王を産んだ。
道長は、産まれたのが皇子でなかったことが不服だったのか、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長和2年7月7日条には、「悦ばざる気色、甚だ露はなり」と不機嫌な様子であったことが綴られている。
短い治世の終わり
もともと病弱な体質であった三条天皇だが、道長との対立や、内裏がたびたび焼亡したことによる心労からか、眼病を患ってしまった。
『小右記』の長和3年(1014)3月1日条によれば「近日では、片目が見えず、片耳が聞こえない」という状態に陥っていたという。
道長は、そんな三条天皇に見切りを付けた。道長は皇太子の敦成親王(道長の孫)に譲位するよう、三条天皇に強く迫っていく。
三条天皇は激しく抵抗したが、退位を余儀なくされ、娍子が産んだ第一皇子・敦明の立太子を条件に、敦成親王への譲位を受け入れた。
長和5年(1016)正月、三条天皇は皇位を退き、敦成親王が後一条天皇となった。三条の治世は、四年半で終わりを告げた。
そして、翌寛仁元年(1016)5月9日、三条は42歳で崩御した。
父・三条の死により後ろ盾を失った敦明親王は、同年8月、自ら皇太子を辞退した。
代わって皇太子となったのは、後一条天皇の同母弟・敦良親王(のちの後朱雀天皇)である。これにより、冷泉・円融両系の両統迭立は終わった。
恋しかるべき夜半の月かな
最後に、三条天皇が譲位に際して詠んだとされる歌をご紹介したい。百人一首にも収められているので、ご存じの方も多いだろう。
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき夜半の月かな
(心にもなく、この辛い世の中を生きながらえたのなら、その時は宮中で見たこの美しい月を、きっと恋しく思うだろう)
目を病んだ三条天皇は、この時すでに月を見ることはできなくなっていたと見られており(倉本一宏『三条天皇——心にもあらでう世に長らへば——』)、この歌を詠んだとされる約一ヶ月後に譲位をしている。
夜空に浮かぶ月のように、美しくも切ない歌である。
【三条天皇ゆかりの地】
●広隆寺
飛鳥時代の官吏で、渡来系豪族・秦氏の族長的な存在である秦河勝が建立した寺院。
京都市右京区太秦蜂岡町にあり、京都最古の寺院といわれる。
本尊の弥勒菩薩像は、国宝指定第1号である。
藤原道長の日記『御堂関白記』長和5年(1016)12月3日条に、三条天皇が参籠したことが見える。この時、道長は供奉しなかったという。
筆者:鷹橋 忍