周瑜、諸葛亮、荀彧…三国志で最強の軍師、一番賢いヤツは一体だれか?

2024年8月29日(木)5時50分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


知恵者たちが火花を散らした三国志時代、最強の軍師はだれか?

 どのような武力も、駆け引きや知恵ある計略があってこそ実力を発揮できる。三国志の時代でも、この原則は同じ。戦闘マシーンのような猛将の呂布も曹操の軍勢に敗れ、初期最大勢力の袁紹軍団も、最終的に軍師と謀略家の知恵の差で曹操軍に殲滅されます。

 流浪を繰り返していた劉備は、神のような英知を持つとのちにいわれた諸葛孔明と出会い、一つの帝国を創り上げるまで成功を重ねます。劉備と同盟して赤壁の戦いで曹操軍を打ち破った呉にも、周瑜や魯粛など戦略立案に長けた名軍師が活躍していました。

 魏・呉・蜀の三国で、さまざまな軍師が入り乱れて知恵の限りを尽くして戦った三国志時代。

 この時代に、一体だれが最強の軍師だったのでしょうか。今回の記事では、三国志時代最強の軍師を考察していこうと思います。


三国志時代、最強軍師の候補者としてのリスト

 入り口として、書籍『三国志最強は誰だ?(一水社)』と、『「三国志」最高のリーダーは誰か(ダイヤモンド社)』をまず参照してみます。前者では、知力が抜きん出た人物として以下を挙げています。

(魏)荀彧、郭嘉、司馬懿

(呉)周瑜、魯粛、張昭、陸遜

(蜀)法正、諸葛亮、馬謖

 軍師というカテゴリーでは違うと思われるのは、呉の張昭、蜀の馬謖の2人でしょうか。『三国志最強は誰だ?』では、知力という要素のみで測られているため、指標のズレからも「張昭、馬謖」は除外します。

『「三国志」最高のリーダーは誰か(ダイヤモンド社)』では、軍師を7つのカテゴリーに分けています。「股肱」「軍略家」「名望家」「謀臣」「諫臣」「忠臣」「叛臣」の7つの分類に選ばれているのは、以下の人物です。

(魏)鮑信、荀彧、程昱、蔡瑁、孔融、司馬懿、司馬炎

(呉)魯粛、張昭、周瑜

(蜀)麋竺、諸葛亮

 蔡瑁はもと劉表の配下であり、劉表の死後に息子の劉琮が曹操に降伏したために、曹操配下となった人物ですが、軍事にはあまり関与していません。同じく孔融、麋竺も軍事に関与していないため除外すべきでしょう。

 司馬炎(魏を滅ぼして西晋を建てた)も、三国志時代の軍師とするにはやや時代が異なるため、除外します。

 ここでもう1つの除外フィルターとして、「戦闘で負けて死亡したか否か」を提示したいと思います。このフィルターで除外されるのは魏の鮑信となります。


魏の賈詡、蜀の龐統を検討リストに加えて選別を進める

 除外したのちのリストを見ると、明らかな候補が2名欠けていると思われます。魏の賈詡と、蜀の龐統です。賈詡は謀略家として極めて優秀で、張繍の部下だった時に、曹操にいったんは降伏したのちに奇襲を行い、曹操の息子を戦死させるほど曹操を追い詰めました。

 龐統は210年から214年の短い期間に劉備に仕えた人物で、益州攻略に功績がありながらも、敵の城を包囲する戦いで流れ矢に当たって36歳で戦死。劉備軍はこの戦いで敗走したわけではなく、「戦闘に負けて死亡」には当てはまらないのですが、若くして死去し、活躍の時期が短いため龐統も除外します。

(魏)荀彧、程昱、郭嘉、賈詡、司馬懿

(呉)周瑜、魯粛、陸遜

(蜀)法正、諸葛亮

 さらに、早く病没した人物を抜き出してみます。魏の郭嘉、呉の周瑜、蜀の法正の三人が、優れた能力を発揮した軍師でかつ将来を嘱望されながらも病没しています。郭嘉は207年に38歳で死去、周瑜は210年に36歳で、法正は45歳で220年に病死しています。

 郭嘉は袁紹との大戦争で曹操を勝利に導いた軍師ながら、赤壁の戦いの前に病没。周瑜は赤壁の戦いを指揮した軍師で、赤壁で曹操軍に勝利したのち、北上して天下を狙う計画中に病没。法正は劉備が漢中地域を制覇して漢中王を名乗ったまさにこれからというタイミングで病死しています。

 この3名は活躍した時代がすこしずれていますが、軍功を考慮すると以下のように順位付けできるのではないでしょうか。

郭嘉(魏)>周瑜(呉)>法正(蜀)

 いずれも本当に惜しい時期に病を得て死去した人物で、彼らが天寿をまっとうする人生を送れば、三国志は相当に変化していたと思わせるほどの軍師でした。また、曹操配下の程昱は、赤壁の敗戦以降に引退を表明して引きこもったため、程昱も除外します。


グランドデザインを描く大軍略家と、戦闘指揮官の2つの区分けをする

 早くに病没した三人を除くと、以下のようになります。

(魏)荀彧、賈詡、司馬懿

(呉)魯粛、陸遜

(蜀)諸葛亮

 ここで、軍師を2つの区分に分けて考察します。1つ目は、グランドデザインを描く大軍略家、2つ目は現場指揮が多い戦闘指揮官です。

 大軍略家の分類に当てはまるのは以下の人物でしょう

「荀彧、魯粛、諸葛亮」

 戦闘指揮官の分類は以下の人物になると思われます。

「司馬懿、陸遜」

 荀彧、魯粛、諸葛亮にはそれぞれ戦闘指揮官としての活躍もありましたが、全体としてはグランドデザインを描いた大戦略家の要素が強いと判断しました。

 ここで、最終の2つのフィルターを設定したいと思います。

① どれほど献策を実現させたか(あるいは戦闘に勝利したか)

② 事態の変化にどれほど上手く対処できたか(当初の計画と違う事態に)

 2つのフィルターを元に、それぞれの人物を考察しています。

 大軍略家のグループの荀彧は、曹操勢力を最強の軍団に押し上げています。しかし、赤壁の戦い前後で曹操と方針がすれ違い、漢王朝の復興を目指した荀彧の考えと曹操の野望が両立しなくなり、自害をすることに。その意味で、①の献策の実現は高得点でも、②においては失敗したと考えられます。

 魯粛は孫権に皇帝になることを進言しており、天下三分の計という意味では、三国それぞれの鼎立を目標としました。赤壁の戦いでも降伏ではなく抗戦することを選び勝利し、荊州を劉備に貸し与えて防波堤としながら、劉備陣営が約束を破った(事態の変化)ときには、劉備陣営を軍事的に追い詰めて、荊州の一部を返還させることに成功しています。

 魯粛は①で高得点、②においても平均点を上回る結果を残したといえます。

 諸葛亮は、劉備に天下三分の計を進め、最終的に蜀による漢の復興を目指しました。赤壁の戦い以降は根拠地を得て、劉備を皇帝にさせることに成功。彼の計画には荊州の領有が欠かせなかったものの、龐統や法正の死去と関羽の敗死で荊州が失われたとき(事態の変化)、劉備死後も蜀を破綻させずに維持した意味では、事態の変化に対応したとも言えます。

 諸葛亮は、①で高得点、②においても高得点といえます。

 ただし、少しだけ長いスパンで観ると、蜀は魏を打倒する北伐を繰り返したことで疲弊し、264年に滅亡しています。一方の呉は280年に滅亡しており、諸葛亮のグランドデザインは、魯粛に比較して無理があったと推測されます。魯粛の描いた大戦略は、より現実的だったのです。

 これらのことをすべて総合すると、大戦略家としての軍師の順位は

魯粛(呉)>諸葛亮(蜀)>荀彧(魏)

 となります。

 一方の戦闘指揮官としての司馬懿、陸遜ですが、共に戦場での功績は、欠点がないほど素晴らしいもので、司馬懿が諸葛亮の北伐でやや苦戦したことを除くと、両者は完璧に近い戦闘指揮官でした。しかし、司馬懿が曹丕の死去のあとの曹叡時代になってのち、待遇や扱いが異なってきた(事態の変化)に対処してクーデターまで成功させたのに、陸遜は孫権の跡継ぎを決めるお家騒動に巻き込まれて(事態の変化)、最後は憤死していることを考えると、総合的な優秀さは、圧倒的に司馬懿の勝利となります。

司馬懿>陸遜

 最強軍師を決める結論として、2つのカテゴリーそれぞれの結論は、

◎大戦略家 =魯粛(呉)>諸葛亮(蜀)>荀彧(魏)

◎戦闘指揮官 =司馬懿(魏)>陸遜(呉)

 となりました。ただし、それぞれの人物の生まれた時期が違うため、情勢の変化にどこまで対応できたと判断すべきかは、斟酌する必要があると思われます。


別枠としての「賈詡」という謀略家の魅力

 お気づきだと思いますが、最後の検討部分で「賈詡」という軍師・謀略家のことを議論しませんでした。それは賈詡という人物が、他の人物とは別の指針で動いていたことが理由です。

 董卓が暴れていた頃は、各軍閥の調整役として機能し、董卓死後は李傕・郭汜に長安を奪回させる策を授けて成功させています。さらに張繡という武将の配下にあったとき、一度は曹操に降伏するも、張繡が曹操から受けた屈辱のために反旗を翻すと、奇襲の策を授けて曹操が九死に一生を得るような敗北寸前にまで追い込み、曹操の息子(曹昂)を戦死させました。

 賈詡は、張繡が軍事的才覚で曹操にはるかに劣ることを見抜いており、自分のことだけを考えるなら、張繡の屈辱など無視して、さっさと曹操に仕えればよかった。しかし一度は自分を信任してくれた人を助けるために、圧倒的な不利を跳ね返す奇策を生み出してそれを成功させてしまうのです。

 李傕・郭汜の件も同じで、漢王朝や社会騒乱の平定を考えるなら、この二人に助力をせずに、衰退するのを放置すればよかった。しかし、自分を信任してくれる上司を助けてしまう情が賈詡にはあったのでしょう。天才的な謀略家なのに、情を断ち切れない不思議な人間味が、この人物にはありました。

 この情により、賈詡は曹操陣営に下ったときには、上司の息子を敗死させた者、二代目社長の兄を殺した人物として存在しなければなりませんでした。このとんでもない苦境でも活躍しながら天寿をまっとうしたのは、賈詡という謀略家の面目躍如というところ。そのため、他の軍師とは別のカテゴリーとして比較をせずにおいた次第です。

 ここで議論した三国志の人物は、いずれも偉大な軍師であり、後世の私たちに叡智の凄さと、人生を生きる意味や大切なことを教えてくれる貴重な存在だといえるでしょう。

筆者:鈴木 博毅

JBpress

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