“名古屋系”を切り開き、最強のライブバンドへ進化し続けた「黒夢」の軌跡

2023年9月8日(金)6時0分 JBpress

(冬将軍:音楽ライター)

90年代から現在までの、さまざまなヴィジュアル系アーティストにスポットを当て、その魅力やそこに纏わるエピソードを紹介していくコラム。今回は、名古屋系を切り拓いたパイオニアとして知られ、現在まで続くヴィジュアル系っぽいボーカルのパブリックイメージを定着させた「黒夢」を紹介する。(JBpress)


V-ROCKイズムの根幹

 以前、音楽としてのヴィジュアル系を象徴する楽曲として、LUNA SEA「ROSIER」(1994年)を取り上げた。退廃美の世界観と刹那的な歌詞、緩急のついたドラマティックな楽曲展開を持った同曲は、ヴィジュアル系ロック、V-ROCKの雛形というべき存在にもなった。

 そうした楽曲展開や空間系エフェクトを施したギターサウンドなど、ヴィジュアル系を感じさせる音の要素がある。では、ボーカルではどうだろう。ニヒルでナルシシズムを漂わせながら、狂気性を感じさせるヒステリックなシャウト……そんな現在まで続くヴィジュアル系っぽいボーカルのパブリックイメージを定着させたのは、黒夢のボーカリスト、清春だろう。英国ゴシックロックの妖艶さと日本古来の歌謡ロックを織り交ぜながらオリジナルスタイルを確立させた唯一無二のボーカリストである。

 巻き舌気味でしゃくるような発声、強烈なビブラート、日本語のイントネーションやアクセントをずらして英語っぽく聞かせ、艶めかしく歌いながらも突如豹変して吐き捨てるようにシャウトするという、今では多くのボーカリストがやっているスタイルは清春が流行らせたようなものだ。そしてボーカルスタイルのみならずステージングにおいても、いわゆるボーカリストが上がる“お立ち台”も元を辿れば、清春がパイオニアであるという説も出るくらい、彼のスタイルはV-ROCKイズムの根幹にあるのだ。

 そして清春はもちろん、黒夢がシーンに与えた影響力は大きい。“名古屋系”と呼ばれたダークなシーンから、ヴィジュアル系ブームの反面で引き起こされた脱ヴィジュ(脱ヴィジュル系)というムーヴメントに至るまで、広範囲にわたる。活動のなかで音楽性とビジュアル面が大きく進化していったバンドであるが、その変遷はヴィジュアル系シーンの歴史を物語っていると言っていいものだ。


名古屋系を切り拓いたパイオニア

 黒夢は1994年にメジャーデビュー。続いて1996年4月にROUAGE、同年9月にLaputaがメジャーデビューを果たした。翌1997年にメジャー進出したFANATIC◇CRISISは、MALICE MIZER、La'cryma Christi、SHAZNAと共に“ヴィジュアル四天王”と呼ばれた。ここに挙げたバンドは中京圏、名古屋出身のバンドである。

 90年代のヴィジュアル系シーンは、東はX率いる、Zi:KILL、LUNA SEAらが所属していたエクスタシーレコード、対して西にはCOLORが率い、BY-SEXUAL、かまいたちといったバンドが所属していたフリーウィルという、東京と大阪のインディーズレーベルの存在が大きくあった。しかし、先述の黒夢を筆頭としたバンドはそのどちらでもない名古屋のバンドである。“名古屋系”、気づけば彼らのことを皆がそう呼ぶようになっていた。

 当初は“名古屋シーン出身のバンド”という意味合いであったが、ダークで退廃的な雰囲気を持ったバンドが多かったことから、“名古屋特有の様式美”として使用されるようになった。その発端となったのが黒夢である。

 黒夢の猟奇的な音楽性と陰鬱で病んだ歌詞と耽美なメロディ、グロテスクでシアトリカルな世界観は、ヴィジュアル系黎明期に“黒服系”と呼ばれていたバンドの特性をより色濃くしたものであり、その流れを汲んだ名古屋出身のバンドが、名古屋系と呼ばれるようになっていったのである。

 名古屋系は直接的に音楽性を表しているわけではないが、イギリスのゴシックロック、そしてポジパンこと、ポジティヴパンクの影響を大きく受けている。

 日本におけるゴシックロックの祖でもある、AUTO-MODや、雑誌『FOOL’S MATE』初代編集長である北村昌士が設立したレーベル、トランスレコード所属のバンドなど、そうした先駆者たちの影響を強く受けていたのが黒夢であり、その前身バンドであるGARNETだ。清春の存在は言わずもがな、ダニエル・アッシュ(バウハウス)から布袋寅泰、今井寿(BUCK-TICK)の影響下といえる、真宮馨のエッジィでニューウェーヴな香りを放つギターも印象的だった。

 1991年にGARNETは解散。その後、実質ギタリストが替わった形で結成されたのが黒夢である。「夢とか神というものは存在しない」という意味が込められたバンド名、さらには「死」といった絶望的で過激性を帯びたコンセプトを全面に押し出した。十字架、棺桶、蝋燭、首吊り……といった暗黒的なアイコンを用いて作り上げたビジュアル面は彼らのスタイルを色濃く表していた。

 サウンド面ではジャパメタ影響下のギタリスト、臣によるギタープレイがバンドの世界観をハードに扇動していく。ニューウェイヴとポジパン要素にメタリックでハードコアなサウンドを融合させた。AUTO-MODのシアトリカルとトランスレコードの複雑で難解な世界が絡み合う中で、ジャパメタのハードなサウンドが猛り狂う。様々な要素を取り入れた、その絶妙なバランス感覚は、『生きていた中絶児』(1992年12月)で見事に体現されている。ヴィジュアル系を代表する名盤であり、名古屋系の金字塔となった作品だ。


メジャーシーンのスターダムへ

 1994年3月にリリースされたメジャー1枚目となるアルバム『迷える百合達〜Romance of Scarlet〜』。東芝EMIから佐久間正英プロデュースによって制作された。この組み合わせは、BOØWYを想起させる。メジャーデビューシングル「for dear」のノリの良いビートとキャッチーさは、確かにビートロック系譜を感じさせるものだった。

 しかしながらエッジィなナンバー「棘」、奈落へと落とされる「masochist organ」、混沌とした狂気が暴発する「autism -自閉症-」など、ダークでハードな路線は変わっていない。むしろ、内省的で孤高な美学が名プロデューサーの手によって、一気に外へと解放されたと言っていいだろう。インディーズ時代はあまりにも悲痛でアンダーグラウンドすぎる世界観ゆえ、バンドの大きな魅力であるメロディアスな部分が伝わりづらいものになっていたことも否めない。それがバンドの本質はそのままに、より洗練されたものとして明確になったのが本作である。

 続く『Cruel』(1994年8月)、『feminism』(1995年5月)の流れは、インディーズのヴィジュアル系バンドがメジャーでどう洗練されていくのか、それをリアルに感じたものである。『feminism』のレコーディング中に臣の脱退という大きなアクシデントに見舞われるものの、カジュアルで中性的な清春のジャケットが表すかのように聴きやすい作品に仕上がっている。メジャーにおけるポップス色を強めた黒夢のひとつの到達点がこの『feminism』だろう。結果として、初のオリコンアルバムチャート1位を獲得する。

 カラフルでファッショナブルな出たちでテレビ番組に多く出演するようになった清春、インディーズ時代から大きく変化した路線に戸惑いを感じたファンも多かったが、バンドとしての音楽とクオリティは確実に上がっていったのである。

 5枚目のシングル「BEAMS」(1995年)は、自ら出演したCMタイアップもあって、大きなヒットを生む。7枚目のシングル「ピストル」(1996年4月)がMTV Video Music Awards視聴者賞日本部門を受賞し、人気を不動なものとした。メインストリームにおけるスターダムに上り詰めたのだ。


破壊からの再構築

 メジャー4枚目のアルバム『FAKE STAR〜I'M JUST A JAPANESE FAKE ROCKER〜』(1996年5月)はデジタル要素を大きく取り入れたエッジィな作品だ。表題曲「FAKE STAR」は、当時のヒットチャート史上のJ-POPシーンを強烈に皮肉ったもので、後期黒夢のアイデンティティといえる楽曲だ。

 バラエティ番組など、音楽以外のメディア露出が多くなった清春に対し、ファンからの非難の声もあったが、「1位を取れば好きなことをやっても許される、だから1位を取りたい」というようなことを清春が発言していたのをよく覚えている。本作『FAKE STAR〜I'M JUST A JAPANESE FAKE ROCKER〜』は、前作『feminism』と大きく作風を変えながらもオリコン初登場1位を獲得した。フェイクスターならぬ、ロックスターになった。

 人気を不動のものとした黒夢は男性限定ライブを行うなど、ライブバンドとしての真価を発揮し、攻撃性を強めた楽曲が増えていった。1位を取れば好きなことをやっても許される、そのことを証明する、黒夢の破壊からの再構築が始まったのだ。

 パンク路線を決定づけたアルバム『Drug TReatment』(1998年5月)を完成させ、日本武道館公演の9日後に新宿LOFTでのライブを敢行。その過激さと熱はライブアルバム『1997.10.31 LIVE AT 新宿LOFT』(1998年1月)として、パッケージングされている。

 ビジュアル面も言葉とともに、形骸化したヴィジュアル系に抗うようにストリートパンク色を強めていった。シングル「少年」(1997年11月)のミュージックビデオでは、ついにノーメイクとなった清春が上半身裸というスタイルで歌い、強烈なインパクトを与えた。おそらく世間的な黒夢のイメージは、この頃を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

 ヴィジュアル系出身ではあるが、パンクでもある。たとえノーメイクであっても、上半身裸になろうとも、ヴィジュアル系のみならずストリート系を飲み込んだファッションリーダーとしてもカリスマであったし、ロックボーカリスト、バンドのフロントマンとしての圧倒的な清春の存在だ。そのオーラは凄まじいものがあった。カミソリの鋭さ、ありきたりの表現だが、見ているだけで怪我をしそうなくらいだった。

 この頃はX JAPANのYOSHIKIやLUNA SEAのRYUICHIなど、トレードマークであった長い髪をバッサリ切ったり、メイクを薄くしたり、はたまた落としたり、洋楽嗜好を強めた音楽などと合わせて、脱ヴィジュアル系をしたアーティストも少なくはなかったが、黒夢ほどスマートに変化を遂げたバンドはいないだろう。


最強のライブバンドとして

 そして、活動休止前ラストとなったアルバムが『CORKSCREW』(1998年)である。音楽もサウンドももっとも激しく、最も万人受けしないであろうアルバムが黒夢でいちばん売れたアルバムというのだから、どれだけ彼らの影響力が大きかったことか。

 当時はデジタルレコーディングが普及し始めた時代でもあり、海外のオルタナティヴロックの台頭は日本のロックシーンを大きく変えていた。我が国ではモダンヘヴィネスやミクスチャーロックと呼ばれた、ニューメタルやインダストリアルといった最先端の音を取り入れたアーティストが多くいた時代だ。シーンで見れば、BUCK-TICKやhideはその筆頭であろう。その中で、黒夢は前作『Drug TReatment』で確立したパンク路線をさらに極め、極限まで削ぎ落としたシンプルなバンドサウンドに徹したパンクアルバムを完成させたのだ。

 全14曲約44分。シングル曲を除けばどの楽曲も2分〜3分程度。バラードなどなく、シーケンスやシンセといったデジタル要素も一切なし。シンプルなバンドアレンジとスピード感で一気に駆け抜けていく作品だ。清春とベースの人時の関係があまりよくなかったことも、本作の緊張感となっているのかもしれない。

 本作を引っ提げ、1998年6月から1999年1月にかけての全国ツアー『KUROYUME TOUR “Many SEX Years” Vol.5/CORKSCREW A GO GO!』は7ヶ月で100会場、全112公演を行っている。誰もが認めるライブバンドだ。その激しさゆえにライブが中断することもあった。

 そして、ツアーファイナルの1999年1月29日に無期限活動停止を発表した。

 ダークなヴィジュアル系、メジャーでの洗練されたポップロック、そして激しくソリッドなストリートパンク……、目まぐるしいほどの進化を遂げながらもどれにおいてもトップを獲ってきた。初期を除けばほとんどの活動期間をギタリスト不在ながらもアグレッシヴにロックをかき鳴らし、バンドであり続けた黒夢。そのフロントマンである清春は今も変わらず、色気たっぷりのロックスターとして我々を魅了し続けている。

筆者:冬将軍

JBpress

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