『光る君へ』藤原氏の氏寺・興福寺と藤原道長の紛争、別当・定澄の脅しに屈しなかった道長とその後の顛末
2024年9月9日(月)8時0分 JBpress
大河ドラマ『光る君へ』第34回「目覚め」では、都へ押し寄せ、要求を突きつける赤星昇一郎が演じる興福寺別当・定澄ら興福寺の僧たちと、事態の収拾に奔走する藤原道長の姿が描かれた。そこで今回は、この事件を中心にご紹介したい。
文=鷹橋 忍 写真=フォトライブラリー
藤原氏の氏寺・興福寺
興福寺(奈良市登大路町)は、天智天皇8年(669)、藤原氏の始祖・藤原鎌足の夫人・鏡女王が山背国山階陶原(京都市山科区)に造営した「山階寺」が前身だと伝えられる。
天武天皇元年(672)に起きた古代史上最大の戦乱といわれる「壬申の乱」後に、都が飛鳥地方に戻ると、大和国高市郡厩坂(奈良県橿原市)の地に移され、地名を取って「厩坂寺」と称された。
その後、和銅3年(710)の平城京遷都に伴い、鎌足の子・藤原不比等によって、平城京左京三条七坊に移され、名を興福寺と改めたという。
興福寺は藤原氏の氏寺として保護を受け、藤原一族の興隆とともに栄えていく。
奈良時代には「四大寺」の一つ、平安時代には「七大寺」の一つに数えられた。
平安時代に藤原氏が絶大な権力を手にすると、興福寺もよりいっそう繁栄する。
神仏習合(神道と仏教の調和)が盛んになると、10世紀〜11世紀にかけて藤原氏の氏社である春日社(春日大社)と一体化し、膨大な荘園と多数の僧兵を擁し、大和国に権勢を誇った。
ドラマに登場した定澄は長保3年(1001)に、この興福寺の別当(寺僧のトップ)に補されている。
興福寺との紛争
ドラマでも描かれた興福寺の僧が都に押し寄せ、朝廷に要求を迫った事件は、藤原道長の日記『御堂関白記』や、渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』などに記されている。
事件の起きた寛弘3年(1006)の春の除目で、大和守に、大和源氏の祖となる源頼親が任じられた。
歴史物語『栄花物語』巻第五「浦々の別」によれば、頼親は「長徳の変」で道長方の武者として登用されており、道長の信頼を得た人物だと考えられている(以上、東洋大学文学部史学科研究室編『東洋大学文学部紀要 史学科篇(43):2017』所収 森公章「源頼親と大和源氏の生成」)。
この頼親の配下の左馬允当麻為頼(さまのじょうたいまためより)と、興福寺との間に紛争が起こっていた。
興福寺別当・定澄、道長を脅す
『御堂関白記』によれば、寛弘3年6月14日、興福寺から、興福寺領である池辺園の預(あずかり/管理者)が当麻為頼に打擲されたという訴えがあった。
そのため道長は、為頼を召した。
すると、その間に、三千人ほどの興福寺の僧が為頼の私宅に押しかけ、数舎を焼亡させ、周辺の田畑を損亡させたという。
同年6月20日、大和国は、「興福寺の僧・蓮聖(れんしょう)が、数千人の僧侶や俗人を集め、大和国を損亡させた」と訴えた。
藤原氏の氏長者である道長にとって、藤原氏の氏寺である興福寺は繋がりが深いが、道長は、興福寺に非があると判断した(森公章「源頼親と大和源氏の生成」)。
『御堂関白記』によれば、7月3日、道長は蓮聖の公請(僧侶が朝廷から法会や講義に召されること)を停止する。
これに対し、興福寺の大衆(僧兵)は7月7日に愁状を提出するも、却下された。
一方的な措置を承け、約三千人の興福寺大衆が上京。7月12日、興福寺別当・定澄は、道長の土御門第を訪れた。
定澄は、「明日、興福寺の僧綱や已講が、15、16日の間には、大衆も参上すること」を告げ、「僧たちは、もし、蓮聖の愁訴にしっかりした裁定がなされなかった時には、土御門第の門下や大和守・源頼親の邸宅の辺りを取り巻いて、理由を尋ね、悪行を致すでしょう」と脅しをかけた。
これは一種の強訴に他ならないという(古代学協会『古代学 17(2)』所収 朧谷寿「大和守源頼親伝」)。
道長、脅しに屈せず
ところが、道長は定澄の脅しに屈しなかった。
「もし、悪行を致すような僧がいたならば、寺の上層部たちは、覚悟を致しておけ。我が家の辺りで、そのような事があったら、けっして良い事はない。汝(定澄)は僧綱であるが、その地位にあり続けることは難しいかもしれない。その辺りをよく考えるように」と、逆に定澄を脅した。
夜になると、渡部龍平が演じる興福寺の僧・慶理が道長のもとを訪れ、「すでに木幡山の大谷に二千人が参着している」と告げた。
ところが、道長は、「もし悪行がなされたなら、僧たちも、どうなっても恨むべきではない」、「やって来た場合には、どうしてくれよう」などと、こちらも大胆不敵に返答したのち、明日、陣定を行うように命じた。
翌7月13日には、朝堂院(八省院)に僧たちが参集した。
だが、陣定が開かれ、参集している僧たちを、検非違使を派遣して追い立てるべきという宣旨が下される。
道長も慶理を通して、「すみやかに先非を悔いて、早く奈良に帰るように」と命じ、7月14日には、大衆はすべて退去した。
7月15日には、道長に申文を進上するため、興福寺の別当・定澄ら高僧が土御門第を訪れた。
申文は、大和守・源頼親と当麻為頼の停任や、蓮聖の公請停止の撤回など四箇条から成った。
道長が申文の理に合わぬ所を一つ一つ指摘したところ、僧たちは「道理である」と納得し、還り去ったという。
同座した藤原行成は、「長者(道長)の命を承って、すでに口を閉じたようなものである」(倉本一宏翻訳『藤原行成「権記」全現代語訳 下』)と感銘を受け、道長も「私はうまく処置を行なった」と自讃している(倉本一宏翻訳『藤原道長 「御堂関白記」 (上) 全現代語訳』)。
まことに頼もしいリーダーである。
筆者:鷹橋 忍