【すごい】現役台湾総統・蔡英文の専属カメラマン、林育良がまじでヤバすぎる! 日本では不可能な”国家元首のアート写真”で、政治の概念を解体する!

9月16日(月)16時0分 tocana

写真=林育良(リン・ユーリャン/MAKOTO LIN)

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 8月1日から9日まで、東京・代官山のヒルサイドフォーラムで、『写真ー記録ー劇場 The President at an in-between Stage』という写真展が開かれた。作家は林育良(リン・ユーリャン)。現職の台湾総統、蔡英文氏の首席写真官だ。


 この写真展は、ある意味、驚くべきものだった。そもそも、被写体である蔡総統がまともに写った写真のほうが少ないという、現職の国家元首を現職専属カメラマンが撮った写真展としては通常はありえない構成だったからだ。事前に入手した資料につづられていた「『総統』という概念の解体」という一文にも興味を惹かれた。


 作品制作の意図や背景、総統府専属首席写真官の仕事、林さん自身の来歴などについて話を聞いた。そこから浮かび上がってきたのは、台湾における徹底した表現の自由と民主主義的な土壌、そして、林さん自身の特異なキャラクターだった。


■政治ドキュメンタリーではなく、アート作品


ーー『写真ー記録ー劇場 The President at an in-between Stage』は、実に興味深い写真展でした。現職の国家元首を撮った写真を現代アートの文脈で作品化した専属カメラマンは初めてではないでしょうか。


林 私には、蔡英文総統の撮影官であるとともに、アーティストという自負もあります。数年来、写真を生業とし、現代写真を見てきたなかで、職務として蔡総統の写真を撮りながらも、現代アート的な手法を用いることで、いいバランスで作品を作ることができないかを模索してきました。


ーー台湾ではなく、日本で写真展を行った理由を教えてください。


林 華人圏では、この作品で何かを語ることができないだろうと考えたからです。政治的な空気感の問題等があって、華人圏で展示することは難しい。台湾人は蔡英文総統のことを知り過ぎていて、既成のイメージを強く持っていますから、アート作品として見てもらうことには無理があります。日本でなら、蔡総統との距離があるぶん、写真そのものが何を表しているのかを原初的な部分に立ち返って見て、考えてもらえると思いました。


ーーこれまでアメリカやフランスでも写真賞を受賞していますね。現代アートの文脈でなら、日本ではなく欧米で展示するやりかたもあったのでは?


林 確かに、ヨーロッパのほうがウケがいいと思いますし、実際に、今年5月にはベルリンで写真展を行い、10月にはニューヨークに巡回します。でも、規模的にも力を入れているのは日本です。物理的距離が近く費用が安く済むというコスト面が理由のひとつでした。実際にやってみて、そうでないことがわかったのですが。


ーー写真展にかかる費用のほとんどをご自身で賄われたそうですね。そのために、愛車も売ったと聞きました。


林 車は売りました。それとは別に借金もしました。


■史上稀な写真作品が生み出された理由


ーーそもそも、一国の元首を公務で撮った写真を素材に、それも、総統府の職員である写真官が作品化するということは極めて稀なことだと思うのですが、どうして実現できたのでしょうか?


林 オフィシャルな写真でありながら、それをアートとして作品化することは新しいチャレンジでした。要は、アーティストである私が撮影した被写体が、たまたま中華民国総統だったということですが、実現できたのは、多元的な表現を可能にする土壌が台湾にあったからです。


ーー写真展のオープニングトークで対談相手を務めた劇作家・演出家の大岡淳さんも言っていたのですが、普通、専属カメラマンが国家元首を撮る場合、その人が美しく、凛々しく見えるように撮りますよね。大岡さんの言葉を借りれば「個人崇拝を導ける写真」を。でも、そのタイプの写真は1点もありません。たとえば、蔡総統のポートレートは、そのような写真には思えませんでした。


林 あの写真は、彼女が総統に就任する前、私が総統専属写真官になる前に撮った写真、つまり、国家元首と専属写真官という政治的な意味付けをされる以前のシンプルな境遇で撮ったものです。そのうえ、宣伝向けのカットを大量に撮ったあと、周囲からのさまざまな要求から解放され、政治家としての仮面や鎧をはいだ時のひとコマなんです。


ーー写真について、蔡総統ご自身はなんと言っていましたか?


林 「アート作品として、見た人と分かち合ってもらえるのはいいことだと思う。でも、一女性としては嫌だ」と言っていました。やはり、綺麗に見せたい、髪の乱れであったりが写っていることが嫌。そう感じていることは伝わりました。


ーー懐の深い方なんですね。


林 およそ10年にわたって蔡英文氏を撮影して来ましたが、プロフェッショナルを尊重してくれる彼女の姿勢に心から感謝し、尊敬しています。


ーー面白いと思ったのは、発表された写真の多くが、正面からではなく、斜め後ろから撮られたものや、顔が隠れたものだったことです。数えてみたのですが、被写体が蔡総統だと特定できるイメージは展示された写真全体の五分の一以下でした。どうしてそのような写真を中心に構成を?


林 私は1人の人間でありながら、総統府首席写真官、アーティスト、そして、台湾の一市民で有権者という、多重な自我、立場を持っています。蔡総統を撮るさいに、私はその場所にいながらも、あえて違った距離感で撮りたかった。斜め後ろなど、総統自身の顔が見えない位置に下がって撮っているのはそのためです。それに、蔡総統の場合は正面から撮ってもあまりいい写真が撮れない。私自身が思い描くものや見るものが、彼女の喜怒哀楽にひきずられてしまうから。


ーーなるほど。


林 それに、彼女を撮る空間、それが室内であれ屋外の街角であれ、それは1つの地続きのランドスケープで、それぞれのシーンにおいてその人物が現れる前後に場所の意味、意義がどう変わるか? 彼女がいるからその場所に意義があるのか、あるいは彼女が去っても、そこに意義はあるのか? そのことを常に思索してきたこともあります。


ーーそれにしても、一般にイメージしやすい、国家元首をモチーフにした写真とはほど遠いですね。


林 一国の元首を撮った写真の典型は北朝鮮の公式写真でしょう。それには2パターンがあって、1つは偉大なリーダー、金正恩氏が素敵な場所を訪れている写真ですが、素敵過ぎて全てが嘘のように見えます。もう1つは、写真に写った建築物に必ずリーダーの肖像が飾られていて、どこに出かけても彼がいる。国民は、彼に見られながら彼を見なければならないという写真です。


ーー確かにそうですね。


林 トークのなかで大岡さんが「政治家は誰もが往々にして独裁者になりたいのだと私は思っている」と話していたけれど、この2パターンが向かっているベクトルは、一個人が絶対的権力の象徴、存在であるというところですね。


ーーそうです。


林 一方で、私が蔡総統を撮った写真は、そこをあえて強調していません。一為政者の威風堂々とした姿やパワーを示す写真を撮るのは簡単で、たとえそれが普段の生活を撮ったファミリーショットであっても容易に撮れます。一般に流通している政治家の写真はそういうものだらけですよね。だからこそ、違ったものを作りたかった。アーティストとして挑戦的な姿勢を持ちたかったし、専属写真官の立場にあってもそこに服従したくはなかった。そういう部分を、ある意味、脱構築、解体することもパワーだと思っています。


■「総統」という概念を解体する


ーーもっとも驚いたのは、「『総統』という概念の解体」というコンセプトでした。外部の哲学者や研究者なら許されるでしょうけれど、いかに民主国家で表現の自由が認められているとはいえ、政権内部の人間であり総統本人に近い者が表明していたわけですから。


林「総統」を法的な解釈とは異なる概念として再定義し、提示できるのであれば、私には、国や民族を問わず、世界のどこででも通用可能なものとして使用、拡散できればという野心があります。ただし、この作品は、いろいろな側面で議論可能だからこそ難しいという部分があり、あくまでゴールではなく中間点として、今できる最大の努力の結果がここなのだと思っています。「総統」という定義をどの範囲まで拡張するか、できるかはすごく難しい。


ーー「どの範囲」とは?


林 空間、建築、ランドスケープ、人物、肖像等々。そのため、当初は、『The President』というシンプルなタイトルでした。しかし、それだとドキュメンタリーの匂いが強くなってしまう。私がやっていることはドキュメンタリーのように見えてドキュメンタリーではありません。そこに、キュレーターの許戊德が『写真ー記録ー劇場』という枠組みを提案してくれました。『The President』という言葉が物語る範囲を狭めてしまう点で違和感はあったのですが、そう設定することによって、私自身が本来考え、写真で語ろうとしているものとは違うスパークが生まれるのではないかとも思い、一緒に展示を作りました。


ーー写真展を見て、「『総統』という概念の解体」とは、「総統という概念は一個人に属するものでなく、入れ替え可能である」という意味合いなのかと思いました。たとえば、メインイメージの台湾総統府の写真に写っているのは蔡総統ではなく、それぞれが思いのままにくつろぐ台湾国民の姿ですし、記者会見のリハーサル風景を撮った写真は、全く同じロケーションで蔡総統が写った写真と、テストのための総統役の別人が写った写真がともに展示されていました。つまり、「総統」とは蔡英文氏個人の属性ではなく、台湾国民の誰もが「総統」という概念の対象たりうると。


林 そういう捉え方もいいと思います。作品を見たみなさんから多元的な解釈が生まれることを期待していましたから。たとえば、あの2枚の写真は、後姿を見ただけでそれが蔡総統だと認識できるかどうか、人によって見え方が変わりますよね。あるいはあの場所が総統府内だという情報を得たうえで見るのと知らずに見るのとでも違ってきます。総統という人や場所の情報を知った時にどう見えるのか、という部分でも揺さぶりをかけているんです。


ーー先ほどの、「空間、建築、ランドスケープ、人物、肖像等々」というお話から、「総統」という概念は一個人に属しないということだけでなく、属する対象は人でなくてもいい、という見方もできるかもと思いました。まるで、万物に神が宿るという八白万の思想。「総統という概念は万物に属しうる」と言うとラディカル過ぎますが。


林 もしなにか言えるとすれば、総統というのは政治的儀式の象徴であり、儀式そのものでもある。それは民主国家の象徴でもあるし、制度の象徴でもあるし、民の象徴でもある。つまり、「総統」という言葉が指す対象は、必ずしも人間だけではないということですね。


ーー「総統」という概念は多面的で、林さんの作品を通して、見た人各々の固定観念は揺さぶられる。


林 スマートフォンの画面に表示された蔡総統の写真を集めた作品がありますね。


ーー見ました。まるで『ポケモン』のようだと思いました。


林 「総統とは儀式の象徴だ」と言いましたが、一般民衆にとっては通常手の届かない存在でありながらも、彼らのSNSで見る写真のなかの総統は民衆に身近な存在として振舞っているし、民衆も、本心はわかりませんが、総統を近しい存在として認識しているように写っています。そこからにじみ出ることとして、総統の神性さというものはすでに解体されている、ということも提示しているんです。


ーートークのモデレーターを務めた写真評論家のタカザワケンジさんも言っていたけれど、「総統府首席写真官」と「アーティスト」という立場を1人で務めるなんて、分裂していますね。


林 そうかもしれません。しかし、アートという1点にシンプルに立ち返ってそれぞれを融合することは、私だからこそできることなのだと思っています。


(写真=林育良(リン・ユーリャン/MAKOTO LIN、文=渡邊浩行/モジラフ コーディネート、通訳・池田リリィ茜藍)

tocana

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