袴田事件再審公判、今日判決 袴田ひで子90歳「死刑が確定した弟・袴田巖の無実を訴え続けた57年。弟のために人生を犠牲にしたという気持ちはまったくない」
2024年9月26日(木)11時30分 婦人公論.jp
3月20日、検察が抗告を断念したと巖さんに伝える
2024年9月26日午後2時から、1966年に静岡県清水市(現在の清水区)で起こった袴田事件のやり直し裁判の判決が言い渡されます。出廷を事実上免除されている袴田巖さんの代理で出廷する姉・ひで子さんの2023年5月のインタビューを再配信します。
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3月13日、ニュースで流れた、ある女性の満面の笑み——。57年前に起きた一家4人殺害事件の容疑者として逮捕され死刑が確定していた袴田巖(はかまた・いわお)さん(87歳)の姉、ひで子さん。東京高裁から巖さんの裁判の再審開始決定が出された瞬間だった。20日、その再審開始確定の報せが届いた場に報道関係者として唯一居合わせたジャーナリストが聞く、ひで子さんの半生と今の心境は(構成・撮影=粟野仁雄)
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<前編よりつづく>
中傷の言葉から酒浸りになった日々も
巖は獄中からよく家族に手紙を送ってきました。67年9月、静岡地裁で裁判中に味噌のタンクから血痕のついた5点の衣類が見つかった時は、「これで自分の無実が晴れる」と喜びに満ちた手紙が来た。でも、68年9月11日、まさかの死刑判決が出たのです。
味噌漬けの衣類は犯行着衣で、巖のものだとされて。母はショックで寝込み、「巖は大丈夫かい」と言いながら亡くなりました。脳梗塞の後遺症で寝たきりだった父も、後を追うように他界。兄や姉には家庭があるから、独り身の私が拘置所での面会などを引き受けました。
でも、巖の人格を貶めるような報道が相次ぎ、心ない言葉が耳に入ってきます。無実と信じていても、世間の風当たりに心が冷え、眠れない夜が続きました。深夜にウイスキーをあおり、二日酔いのまま出勤したことも。
職場の人は気を使って優しくしてくれたけれど、友だちとのつきあいは絶え、3年ほどは酒浸りで心も体もひどい状態でした。
そんな私を変えたのは、支援者の方々の熱意です。巖の小・中学校の同級生で静岡大学の先生になっていた渥美邦夫さんが呼びかけ、支援の会ができました。冤罪を信じる方々が巖のために動いてくださるというのに、姉の私がこれじゃいけない。そう思って、お酒をスッパリ断つことができたのです。
76年5月の控訴審判決は東京高裁の法廷で傍聴しました。まさかの棄却。うなだれて連れて行かれる巖の姿は忘れられません。80年11月には最高裁で棄却され、死刑が確定。もう、周り中すべてが敵に見えました。
でも、救出運動の輪はさらに広がっていったのです。高杉晋吾さんの本『地獄のゴングが鳴った』で、冤罪事件として知られるようになったのは大きかった。
日本プロボクシング協会も尽力してくれました。名ボクサーだった輪島功一さんは愉快で、「何もしないからジジイとババアで手繋いでいきましょう」なんて言って、一緒に拘置所へ面会に行ってくれたんですよ。
東京拘置所へは毎月通いましたけれど、仕事とのやりくりに苦労しました。浜松からの新幹線の切符が高く、「もったいないのでは」なんて言う人もいたけど、冗談じゃない、殺されそうな弟がいるのだから。
冤罪事件では、身内の無実を信じていても世間体を考えて縁を切ってしまう家族も多いようですが、それじゃ警察の思うつぼ。だから余計に冤罪が起きる。肉親が頑張らなくてどうするんですか。
支援者の実験が証拠捏造を暴くきっかけ
ところが90年ごろだったでしょうか、面会の際、巖が青ざめた顔で話し出したんです。「今日、親しくしていた人が処刑された。絞首台に連れて行かれる直前に、お世話になりましたって僕に挨拶に来たんだ」と。
それからです、変なことを言うようになったのは。「大きな天狗と闘っている」とか「神の儀式」とか。そのうち、面会に行っても拘置所の職員から「俺には姉なんていない、と言っておられて会おうとしません」と伝えられるようになりました。
3年近く会えないこともあったのですが、支援者の山崎俊樹さん(「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」事務局長)や国会議員だった保坂展人さん(現世田谷区長)の尽力で、再会できました。このころ巖は私のことを「メキシコのばばあ」なんて言っていましたが。(笑)
多くの方に支援をいただいたなかでとりわけ感謝したいのは、40年近く助けてくれている山崎さんです。「事件から1年以上たって味噌タンクで見つかった5点の衣類の血痕が赤いままのはずがない」と、衣類を味噌に漬ける実験を20年以上、繰り返してくれました。
その結果は捜査機関による証拠捏造を示しており、今回の再審開始決定では彼の実験が評価されています。感謝してもしきれません。
2007年には、静岡地裁での一審の裁判官を務めた熊本典道さんが、「袴田君は無実だと私は主張したが、ほかの2人の裁判官を説得しきれなかった」と涙ながらにテレビで告白されました。あれで周囲の私たち家族を見る目ががらりと変わったんです。
支援者から贈られたカラオケセットが今の息抜き
私は自分のために自由奔放に生きてきた
私は60歳を前に、何か生きるための目標を持ちたいと思うようになりました。巖が帰ってきたら一緒に暮らせる家がほしい。それで借金をして、4階建てのマンションを建てたのです。
バブルがはじける前に借金できたのは運がよかったね。返済のため全室を人に貸し、自分は勤め先の一室を借りて暮らしました。完済してマンションに引っ越せたのは79歳でしたか。
14年3月、巖が48年ぶりに釈放されました。静岡地裁が再審開始決定と拘置の執行停止を命じたのは弁護団も想定外で、大慌て。釈放後の記者会見では、「富士山が」「松尾芭蕉が」などと意味不明なことを話していました。拘禁反応の影響です。
でも私は巖を精神科に診せることはしません。50年近くも死刑の恐怖にさらされ自由を奪われていれば、ああなって当たり前。恥ずかしいとは思わない。支援集会でもなんでも、巖が望めば一緒に行きます。
今は私が姉のひで子だとわかっていますよ。巖は男を怖がるんです。巖を痛めつけた警察、検察、裁判所の職員はすべて男でしたから。ある時、巖をよく知る拘置所の元看守さんが訪ねてきてくれましたが、名前を聞いた巖は血相を変えて家から逃げ出しました。絞首台に連れて行かれると恐れたのでしょうか。
18年6月に東京高裁が再審開始決定を取り消した時、弁護団や支援者の方々は意気消沈。でも私は、裁判にはこんなこともある、と冷静に考え、皆さんに、「何をかいわんやです。巖と私は50年闘っています。50年でダメなら、100年までも闘います」とお話ししました。
だから20年12月に最高裁で差し戻しになったのは、最高のクリスマスプレゼントでした。巖は獄中でキリスト教の洗礼を受けているんです。
去年、巖は私の誕生日に「誕生日おめでとう」と書いた1万円入りの熨斗袋をくれました。そんなことができるようになったんだと嬉しかった。急に京都に行きたいと言い出したので、新幹線で弾丸旅行に行ったことも。こうして一緒に穏やかな日々を重ねていきたいものです。
事件後、私は食品会社の経理、それから法律事務所で81歳まで働き、今年90歳になりました。体は健康、医者いらず薬いらずです。朝起きると必ず柔軟体操をします。「デコちゃん体操」と呼んで、40年以上続けていますよ。4階の自宅まではいつも階段を上り下り。足腰は強いんです。
事件から57年。私は33歳の時から巖が釈放されるまでの48年間、ニコリともしなかった。歌番組など見る気にもならなんだ。さぞおっかない顔をしてたと思います。巖が帰ってきてからは、ニコニコのひで子に戻りました。
ずっと巖の無罪を訴える運動を続けてきましたが、弟のために人生を犠牲にしたという気持ちはまったくありません。これが私の運命。父や母は巖の無実を信じながら早くに亡くなったから、親孝行の思いもあります。
巖の壮絶な人生に比べれば私の苦労なんてたいしたことない。私は自分のしたいように、自由奔放に生きてきただけ。こんなにたくさんの方に応援していただけて、本当に幸せ者です。