真の開国の立役者、老中・堀田正睦の幕末史における重要性とは?藩政改革とその成果
2024年10月2日(水)6時0分 JBpress
(町田 明広:歴史学者)
幕末史における堀田正睦の重要性
嘉永6年(1853)6月、ペリー来航によって15年にわたる幕末の動乱の幕が切って落とされた。翌嘉永7年(1854)3月、再来日したペリーとの間で日米和親条約が締結されたが、通商は回避された。この条約は、アメリカに食料や燃料を施して穏便に追い払う、いわゆる撫恤政策の枠内に留まり、鎖国政策をなんとか維持したのだ。
しかし、鎖国の維持は難しく、開国は待ったなしと悟った老中阿部正弘は、積極的開国論に転じて、安政の改革を断行した。その中心的役割を担ったのが、海防掛の岩瀬忠震であった。その阿部老中からバトンを引き継ぎ、老中首座として日本の開国に道筋を付けたのが佐倉藩主・堀田正睦(まさよし)であった。堀田は阿部の政策を踏襲しながら、通商条約の締結に大きく舵を切り、その実現に奔走したのだ。
今回は5回にわたって堀田正睦にフォーカスし、その生涯を追いながら、堀田の決断がいかに日本の開国にとって必須であったのかを明らかにしたい。そして、堀田の幕末維新史上の重要性に光を当てることによって、真の開国の立役者が堀田であることを紐解きながら、歴史の実相に迫りたい。
堀田の生い立ちと藩主就任
文化7年(1810)8月1日、堀田正睦は佐倉藩の7代藩主正時と側室源田芳(よし)の間に、江戸藩邸で生まれた。翌8年(1811)4月10日、正時が病死したため、正愛(まさちか)が8代藩主に就任した。実は、正時は6代藩主正順の弟であり、正順の養子正愛が幼児のため封襲した経緯があった。
正愛は正睦を世子(次期藩主)とし、藩主の座を正時の血統に戻す意向を示した。結果として、正愛には継嗣がなく、文政7年(1824)、正愛の重病時に正睦を世子に決定したのだ。
しかし、藩政を握る老臣金井右膳は、堀田一族の長老で若年寄・堀田正敦(近江国堅田藩主)の子である正脩(まさなが)の藩主擁立を画策した。それに対し、物頭渡辺弥一兵衛ら下級武士が血統維持を訴えて、金井に反対を表明した。そもそも、渡辺らは堀田を少年期から大器として見込んでおり、金井の策略を阻止することに成功した。
文政8年(1825)、堀田は9代藩主に就任し、それまで正睦擁立に腐心してくれた渡辺を側用人に抜擢したのだ。そして、天保3年(1832)には、渡辺は老臣に昇進し、藩政改革(財政再建、文武奨励等)の責任者となった。
堀田の幕政への参画
文政12年(1829)4月12日、堀田正睦は奏者番に、さらに天保5年(1834)8月8日には寺社奉行兼務に抜擢されたが、まだ弱冠25歳の若さであった。天保8年(1837)5月16日、大坂城代(赴任せず)に就任し、従四位下に推叙された。順風満帆な出世街道を歩んでいたのだ。
同年7月8日、江戸城西の丸老中に推挙され、11代将軍徳川家斉の没後、天保12年(1841)3月23日には、本丸老中にまで上り詰め、老中首座の水野忠邦の天保の改革に参画した。しかし、堀田は改革に対しては批判的となり、渡辺弥一兵衛と図り、天保14年(1843)4月、12代将軍徳川家慶の日光参拝直後に病気(持病の脚気悪化)と称して、辞表を提出したのだ。
閏9月8日、辞任は許可されたものの、一方で溜間詰として辞任後も一定の発言
藩政改革とその成果
老中辞任後の堀田正睦は、佐倉藩に留まり、様々な藩政改革にまい進した。以下、その内容を詳しく見ていこう。
【文武奨励策】
天保5年(1834)4月、城中三ノ丸に西塾を、海隣寺曲輪に東塾を開設した。また、猪鼻分校(南庠、千葉市)、柏倉分校(北庠、山形市)を含め、4ヶ所で儒学を教授した。
天保7年(1836)10月、これらを宮小路に移転・拡充して本格的な学校を建設し、成徳書院と改称して藩校とした。講堂、塾舎、聖廟、書庫、寄宿房等が建ち並ぶ大規模な普請であり、医学設置は佐倉藩の新しい伝統のスタートとなった。
天保10年(1839)、成徳書院の中に演武場を設置し、本格的に武術奨励を鼓舞した。兵学、弓術、馬術、刀術、槍術、砲術、柔術の全てに師範を配置して充実を図った。文武両道を目指し、一方への偏向を戒告した。
【兵制改革(西洋兵法の採用)】
天保12年(1841)、藩士斎藤碩五郎らに高島秋帆から西洋銃砲を修得させた。嘉永4年(1851)には、斎藤らは松代藩に派遣され佐久間象山に西洋軍事を学び、嘉永6年7月に佐倉城中において、西洋砲術の教場を設け武芸師範となり、藩士27人を選抜して教授した。
また、蘭学に精通する木村軍太郎を近習に抜擢し、西洋兵書の研究に従事させた。嘉永6年12月、旧式の火縄銃を撤廃し、「西洋の歩騎砲三兵」(上士:騎兵隊、中士・諸士子弟:大砲隊、足軽:小銃隊)を採用して、西洋兵法の採用による兵制改革を実行した。
【西洋医学奨励】
天保9年(1838)中に、侍医鏑木仙安に箕作阮甫から西洋医学を学ばせ、同12年(1841)には、長崎に派遣し研究に従事させた。翌同13年(1842)、仙安は帰藩して医学局の都講(助手)に就任し、西洋医法を教授し始めた。佐倉藩における、西洋医学の始まりである。
堀田は藩主就任後、戸塚静海を招いて侍医に準じ俸給を付与した。天保14年(1843)8月、佐藤泰然を事実上招聘し、当初は客分待遇で開業医をさせ、病院兼蘭医学塾(佐倉順天堂)を創設させた。さらに、嘉永6年に藩医として佐藤を仕官させている。
佐藤は、多数の門弟を養成しており、ヘルニア手術、乳癌切除術、日本で最初の卵巣嚢腫摘出などの手術を無麻酔下に行うなど、外科手術に辣腕を振るった。また、オランダ医書を翻訳しており、『接骨備要』『謨私篤 (モスト)牛痘篇』『痘科集成』を著した。ちなみに、周知の通り、佐倉順天堂は順天堂医院、順天堂大学へと発展して現在に至る。
このように、堀田は多岐にわたって様々な改革を実行し、しかも成功を収めており、まさに佐倉藩の名君であったのだ。このような堀田を、厳しい舵取りを迫られていた幕府が放っておくことはあり得なかった。
次回は、老中再任後の堀田正睦の動向とその対外政略について、ハリスの江戸参府問題と堀田の大英断を中心に、詳しく説明していこう。
筆者:町田 明広