革命直後のメキシコ、画家・北川民次は何を見たのか?「民衆を描き、民衆と生きる」姿勢を貫いた画家の生涯を追う

2024年10月3日(木)6時0分 JBpress

(ライター、構成作家:川岸 徹)

メキシコで新進画家・美術教育者として名を馳せ、帰国後も精力的に作品を発表し続けた画家・北川民次。油彩、水彩、素描、版画、資料など、約180点により北川民次の表現を多角的に見つめる回顧展「生誕130年記念 北川民次展—メキシコから日本へ」が世田谷美術館にて開幕した。


画家を目指してアメリカへ

 19世紀後半から20世紀にかけての日本。黒田清輝、藤島武二、佐伯祐三ら、日本人洋画家たちが新たな時代の絵画を模索しフランスへと渡るなか、画家を志していた北川民次は早稲田大学を中退しアメリカへと向かった。特に明確な理由があったわけでも、ひねくれ者だったわけでもない。ただ、アメリカのオレゴン州ポートランドにいる兄を頼ってのことだった。

 ポートランドのレストランで働きながら、語学学校に通って英語を習得。1年余りで兄の元を去り、シカゴを経て、ニューヨークへ。1918年にアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学し、アメリカの都市の人々を描いたアシュカン派の画家ジョン・スローンに師事。北川はスローンを選んだ理由を「社会主義者だったから」と答えている。

 スローンとの出会いは、北川の方向性を決めた。「絵画に重要なのは単に見たままを描くのではなく、対象の本質をリアリスティックに捉える姿勢」。そんなスローンの教えに共感した北川は、民衆の実相を描き、社会の暗部や矛盾をあぶり出すことに情熱を注いでいく。


リアルなメキシコを描く

 1921年、27歳になった北川はアメリカを離れ、キューバを経てメキシコへ渡る。北川は南へ向かった理由を「もっと充実したライフと暖かさとを求めて」と説明しているが、それが本心だったのかはわからない。先住民、征服者スペイン人の子孫の白人、混血の人々が混在し、急速な近代化の中でより混沌とするメキシコ社会に強い興味を持った、というのが実際のところではないかと思う。

 北川は訪れたメキシコで、現地の人々と積極的に交流し、彼らのありのままの姿を描いた。メキシコ先住民の祭りを題材にした《踊る人たち》(1929年)、川で水浴びする女性たちを描いた《メキシコ水浴の図》(1930年)、《トラルパム霊園のお祭り》(1930年)はメキシコ時代の代表作。ひとつの画面の中に赤子を抱えた女性、水浴する裸婦、棺桶を運ぶ葬列が描き込まれており、死は生の中に内在するものだと強く認識させられる。

《アメリカ婦人とメキシコ女》(1935年。1958年補筆)は2人の女性をモデルにした人物画。1人は洗練されたワンピース、スカーフ、ネックレス、ハイヒールを身につけた富裕層のアメリカ女性で、もう1人は裸足で質素な衣服をまとったメイドとして働くメキシコ先住民の女性。人種間の貧富の差が、誰の目にもわかるよう、克明に示されている。さらに背景にはスペイン統治時代に建てられたサンタ・プリスカ教会の建物。貧富の差がスペインによる植民地統治によってもたらされたものだと、はっきりと気づかされる。


帰国後に描いた“戦争画”が悲しい

 1936年、太平洋戦争に向かう日本へ、北川は帰国した。だが、当時の日本の社会情勢を目の当たりにして「帰国を後悔した」と語っている。「日本は戦争に必ず負ける」と周囲に漏らしたこともあったという。

《出征兵士》(1944年)は戦地へ旅立とうとする兵士と、それを見送る少年や大人たちを描いたもの。当時、政府の指針により「出征」は明るく祝祭的に描かれるべきものであったが、本作に登場する人々はみな暗く沈んだ表情をしている。特に諦めたように宙を見つめる兵士の顔が印象的。戦争に対する北川の見方が伝わる重要な作品だ。


教育者としての北川民次

 北川がメキシコから持ち帰ったものには「美術教育」もある。北川がメキシコ滞在を始めた1920年代のメキシコでは、野外美術学校が次々に設立されていた。美術を富裕層や限られた知識人から解放し、美術と民衆とのつながりを再構築し、人々の精神を豊かにしよう。北川は野外美術学校の理念に魅せられ、活動に参加。メキシコ市南部の街トラルパンや、メキシコ市から約170キロ離れたタスコの野外美術学校で指導にあたり、タスコ校では校長も務めた。

 野外美術学校の生徒は、先住民の子供たちが中心。北川にとって、自分の実感や経験を大切に感情を込めて絵を描く子供たちは先生でもあった。教え子に刺激を受けた作品として知られる《ロバ》(1928年)。北川はメキシコの生活や労働と密接に関わり、人々とともに生きる動物を愛情深く描いている。柵越しに色鮮やかな花を見つめるロバの優しいまなざしは、北川のまなざしでもあるのだろう。

 メキシコの美術教育のあり方に感動した北川は、日本でも実践を試みた。戦時中は、子供たちのために絵本出版に励んだ。代表作として、瀬戸の陶磁器ができあがる過程を追い、労働の大切さを紹介した絵本『マハフノツボ セトモノノオハナシ(魔法の壺 瀬戸物のお話)』が知られている。終戦後は名古屋の東山動物園に「名古屋動物園児童美術学校」を開校。北川は生徒に自らを“北川くん”と呼ぶようにお願いし、好きな絵を自由に描かせたという。


壁画制作の夢がかなう

 メキシコではもうひとつ、壁画運動との出会いもあった。壁画は1910年代のメキシコ革命後に大切な役割を担ったメディア。読み書きができない民衆は、壁に描かれた絵を見て新しい社会の理念を理解しようとした。

 いつかは自分も壁画の制作に取り組みたい。そんな思いを胸に、北川は《タスコの祭》(1937年)、《雑草の如くⅡ》(1948年)など、壁画の下図ともいえる壮大でメッセージ性の強い作品を手がけていく。そして1959年、ついに壁画制作に関わる機会を得る。CBC会館(名古屋)を皮切りに、旧カゴメ本社ビル(名古屋)、瀬戸市立図書館と、公共性のある場所に設置されるモザイク壁画のプロジェクトに参加した。展覧会では壁画の原画が展示されている。

 民衆へのあたたかなまなざしと、鋭い社会批判精神の両方を併せ持って激動の20世紀を生きた画家・北川民次。いや、画家というよりも、ヒューマニストとの呼び方が相応しいのかもしれない。

「生誕130年記念 北川民次展—メキシコから日本へ」
会期:開催中〜2024年11月17日(日)
会場:世田谷美術館
開館時間:10:00〜18:00 ※入館は閉館の30分前まで 
休館日:月曜日、10月15日(火)、11月5日(火)(ただし10月14日(月・祝)、11月4日(月・振休)は開館)
お問い合わせ:ハローダイヤル 050-5541-8600

https://www.setagayaartmuseum.or.jp/

筆者:川岸 徹

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