荀彧・周瑜・諸葛亮…三国志好きが必ず覚える天才参謀たちが求めたものとは
2024年9月27日(金)5時45分 JBpress
約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
三国志を知る人が、必ず覚える3人の天才参謀…
三国志を知る人が、最初に覚える3人の天才参謀。それは荀彧(魏)、周瑜(呉)、諸葛亮(蜀)でしょう。彼らはそれぞれ曹操、劉備、孫権の参謀(軍師)となった天才でした。
彼らが生を受けたのは、荀彧163年、周瑜175年、諸葛亮181年と時代がやや異なります。周瑜は孫策に従い、董卓(192年敗死)討伐の軍勢にも加わっていますが、荀彧は191年に曹操に初めて出会います。
諸葛亮と劉備の出会いは207年ですから、翌208年の赤壁で交錯する彼らの足跡は、その時点までキャリアの長短も含めて大きく異なります(荀彧は赤壁の戦いには従軍していませんが)。
荀彧・周瑜・諸葛亮の3人は、どのようにして主君に出会ったのでしょうか。その過程の分析を通じて、「本当に賢い人物たちが」乱世に飛躍するために何を考え、何を求めたのかを探っていきたいと思います。
祖父は高名な官僚、名門中の名門の生まれ「荀彧」という人物
荀彧は名家の生まれで、若いころから「王佐の才」を持つと呼ばれたほどでした。「王佐の才」とは、帝王を補佐できる資質という意味です。彼は一時推挙されて官僚となっていましたが、董卓の乱による危険を避けるため帰郷しています。
故郷の人たちに戦乱の危険を伝えるも動かず、荀彧は一族のみを連れて避難します(彼の予想は当たり、その後に故郷は戦闘で蹂躙された)。
荀彧はその後、袁紹に一時仕えますがすぐに見切りをつけて曹操に仕えます。曹操の右腕となり、後漢の献帝を迎え入れる策を掲げたことで、曹操は皇帝の権力を盾に勢力をさらに拡大できたのは、多くの三国志読者の知るところでしょう。
荀彧の若いころの選択を見ると、2つの決断が分かります。
1.危機を予測し、それを避ける行動をためらわないこと
2.次の時代を創る人物を見極め、その人物を大成させることを目指す
受け身であれば推挙された後漢の官僚として生きる道が荀彧にはありました。戦乱を避けるため逃げた先の土地は袁紹の支配下となり、自然のなりゆきなら、袁紹の配下の参謀役などになっていたはずです。
荀彧は聡明な人物らしく、徹底してリスクを避けています。王佐の才を持つ荀彧にとって、「凡庸なリーダーの下につくことも大きなリスク」だったのでしょう。
しかし袁紹配下から脱出するだけでは荀彧には不十分でした。1900年近くのちの日本にいる私たち(三国志ファン)が彼を広く知るには、曹操という人物を荀彧が探し当てる必要があったのです。名家の一族の一人というだけでは、1900年も名を残すことはできません。
本物の王を求めてリスクを取って行動し、曹操に辿り着いたことが荀彧を輝かせた。新時代を創る人物が、自らの才能発露に不可欠だと判断したことが、荀彧を本物の王佐の人にしたのです。
江東で飛びぬけた名門、周氏の英才だった周瑜
兄の孫策と、弟である孫権に仕えた名参謀、軍師の周瑜。彼は175年に揚州(中国の南方)で生まれています。彼の家は「二世三公」(二代にわたって政府高官を輩出した)南方の名門です。彼の従祖父の周景は、その部下に荀彧の父も含まれるほどの高官でした。
名門の生まれとしてなに不自由ない幼少期を過ごした周瑜。しかし、後漢滅亡の騒乱期に、名門周氏も変革の必要に迫られます。
「揚州に名声を持つ周氏は、揚州への規制力を維持するために、武力を持つ新興の孫氏と結合することは有利である。武力だけに頼って台頭した新興の孫氏にとって、周氏の持つ名声は、覇権の確立に大きな役割を果たす」(書籍『三国志』中公新書)
190年、孫権の父孫堅が董卓討伐の軍を挙げたとき、孫策と周瑜は知り合っています。二人は同い年の16歳。意気投合した二人。周瑜は以降、孫氏配下の武将として活躍を始めます。翌191年には孫堅が戦死、息子の孫策を周瑜は補佐して戦いを続けます。
なに不自由のない、名家の周瑜がどうして戦ったのか?
古い時代の大崩壊で、名門中の名門の血を引く周瑜が選んだのは、「新しい時代を支配する力との融合」でした。それは、財力でも名声でも権威でもなく(これらはいずれも崩壊に瀕していた)優れた武力と武を司るリーダーでした。
社会基盤が大きく崩れ、新たな秩序に向かって混乱が加速するときには、どれほどのお金持ち、どれほど有名な名家でも、古いままで動かなければ没落する危険性があるのです。
名門周氏、その英俊である周瑜が求めたのは「新しい時代を支配する力」でした。周瑜は孫氏と結びついてから、天下を睥睨する構想を持っており、のちに天下三分の計を提案する英才の魯粛を孫権陣営に引き連れてきたのも周瑜でした。
周氏と周瑜は、古い時代が崩壊し、新しい時代が創造される転換点を感じ、「新しい時代を支配する力」を必死で模索したはずです。その構想と着眼点、そして驚くべき行動力の結果、周瑜という天才軍師の名声は、不滅のものとなったのです。
劉備軍団の運命を激変させた一人の男、諸葛亮
天才軍師として有名な諸葛亮は、181年の生まれで、劉備との出会いが207年と前2者(荀彧、周瑜)から遅れて三国志の舞台に登場しています。中央の戦乱から少し離れた荊州で青年期を過ごした彼は、その地の学士と智を磨き合い、自らの将来を天下に思い描いていました。
200年に官渡の戦いで、曹操は袁紹に勝利し、北方地域の最大勢力として成長を続けていました。士官を得るなら、北方に出向くことも出来たはずなのに、諸葛亮は曹操陣営には興味を示しませんでした。
『孟公威が郷里を懐かしんで、北方へ帰りたいと願ったとき、諸葛亮は彼に向って、『中原には士大夫がたくさんいる。遊楽はなにも故郷にあるとはかぎらないだろう』といった』(書籍『正史三國志蜀書』より)
彼は、自分の年齢と登場タイミングにふさわしい「遅れてきた野心家」「今から大きな果実となる集団」を求めていたに違いありません。さらに言えば、諸葛亮自身の野心を満たすだけの、遠大な目標が欲しかったのではないでしょうか。
諸葛亮にとって、劉備は「出遅れている野心家」であり、関羽・張飛を含めた猛将たちの集団は、「これから大きな果実となる集団」に見えたのではないでしょうか。よく知られるように、軍人としての能力より、政治家としての手腕が際立つこの人物は、自らが表舞台に立つために、逆に劉備軍団という特殊なチャンスがどうしても必要だったのでしょう。
混乱期から新しい時代に切り替わる時、何を探せばいいのか?
1900年後も名を残している荀彧、周瑜、諸葛亮の名軍師、名参謀たち。彼らは、後漢の崩壊から混乱、新秩序の創造の時代を生きる時、以下の要素を懸命になって探しました。
・新時代を創る人物
・新しい時代を支配する力
・遅れてきた野心家/今から大きな果実となる集団
振り返って現代の日本が、ビジネス上も新たな時代へ向かう混乱期や転換期であるならば、同じものを探す必要性に迫られているのではないでしょうか。
すでに多くの方が感じているように、「コロナ前の市場」は存在していないのかもしれません。あの頃に戻りたくとも、消費層自体が同じ形に戻らないかもしれないのです。
古い時代の崩壊は、新しい時代の萌芽とも言えます。ならば、新しい時代に社会全体で対応しなければいけなかった三国志の時代に、自らの志を実現した3人の智者の行動は、私たちの強力なヒントになるはず。
皆さんの業界で、今いる場所で、「新時代を創る人物」「新しい時代を支配する力」「遅れてきた野心家/今から大きな果実となる集団」を一度、探してみてはいかがでしょうか。
筆者:鈴木 博毅