「科学万能」の今こそ知るべき科学哲学とは何か?

10月10日(土)6時0分 JBpress

あらゆる知識を総動員して思索を深めた古代ギリシャの哲学者、アリストテレス(写真:Mary Evans Picture Library/アフロ)

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「科学」といわれるものには、理論体系を追求する科学研究と、ものづくりを目的とする技術開発の2つがあり、この2つは区別すべきだ。しかし、多くの人はその両者を同一視していたり、混同していたり、技術開発の方だけだと考えたりしている。

 例えば、青色発光ダイオードやオートファジーの発見、iPS細胞の開発やAI(人工知能)は果たして科学なのか、技術なのか。科学者が保証する食品や環境の安全性とは本当に安全ということなのか。遺伝子を自由に改変することはできるのか、またそれは安全なのか。AIは万能なのか、人間を凌駕しうるのか。

 これらの問いに対して、科学がよって立つ根拠は何か、どれだけ正しいのか、科学で可能なことは本当に何でも実際にやっていいのか。そもそも科学知識とは、どのように作られてきたのか──など、科学の正当性を外側から審査し、再評価することが科学哲学の役割である。

 科学は理系、哲学は文系といった分野を超えて、あらゆる知識を総合して問題に対処していかなければならない時代の科学哲学について、生物学の立場から問いかける。

 本書を7月18日に上梓した佐藤直樹(さとう なおき)東京大学大学院総合文化研究科特任研究員・同大名誉教授に話を聞いた。(聞き手:尾形 和哉 シード・プランニング研究員)

科学そのものを動的な活動と捉える

──本書の執筆動機と内容を教えてください。

佐藤直樹氏(以下、佐藤):一昔前は「科学といえば物理学」という印象がありましたが、現在では生物や人間など生命に関わる知識の重要性が圧倒的に増しています。ところが科学哲学の分野では、いつまでも物理学中心の議論が続いていて、とても現在の科学を巡る状況に対応できていません。もっと生物学の科学哲学を世の中に普及させたいと考えて、本書を執筆しました。

 本書は科学的推論、科学的説明、実在論とともに近代科学の歴史や科学革命、さらに生物学と心理学における哲学的問題も扱っています。科学と技術が社会において果たす役割にも重点を置きました。サミール・オカーシャの『1冊で分かる科学哲学』をベースにして、オカーシャの考えと私の考えを対比する形で話を展開しています。

 本書の特色は、今ある科学知識を絶対に正しい知識として見なすのではなく、科学そのものを動的な活動と捉えること。常に知識を作り続ける活動であり、未来に向かって開かれた知識である、とした点にあります。その意味で宗教や偽科学と異なることを明らかにしました。

 酵素研究の歴史を追いながら、酵素の実在性についてまとめました(第6章)。今ではものを分解する酵素は、洗剤にも入っているほど身近ですが、もともと酵素はきわめて曖昧なもので、19世紀には微生物との違いすら分からないほどでした。

 しかし分子生物学の発展とともに、酵素ははっきりとした物理的な実体として認識されるようになります。もし酵素が生物共通の素材であり、どの生物の酵素も同じ性質であれば、生物の機械論的な理解が進むはずでしたが、実際には酵素はそれぞれの生物ごとに微妙に異なる性質を持ったものでした。つまり生物の一部のような位置づけに逆戻りしてしまったということです。これは科学の進歩が概念の明確化につながらない、という逆説的な状況を示しています。


科学と技術は明確に区別すべきもの

佐藤:また、トマス・クーンのパラダイムを巡る議論も紹介しています(第7章)。コペルニクスやアインシュタイン、ダーウィンの科学革命によって刷新される科学の枠組みや体制を、トマス・クーンは『科学革命の構造』(1962年)の中でパラダイムと呼びました。

 科学の発展は連続的ではなく、科学革命と通常科学という2つの時期に分けられる。通常科学とはあるパラダイムの中で、科学者たちが理論を構築したり、予測を実証したりする地道な作業だが、その過程で、たとえパラダイムに反するような実験や観察の結果が出ても方法がまずかったのだと考えられ、すぐに枠組みそのものが疑問視されることはない。しかし、次第に理論に合わない事実の発見が積み重なっていくと、科学革命が引き起こされて、パラダイムの代案が出されて新しいパラダイムが登場することになる、という考えです。

 トマス・クーンが、もともとどのようなつもりでこのパラダイム概念を世に出したのかという検証は、21世紀になってようやく始まりました。その結果、クーンのいう通常科学とは、パラダイムとセットになっているパズル解きであり、パラダイムによって与えられるパズルには解答が保証されている──という程度のものだったことが分かりました。さらに、クーンがパラダイム概念を社会学や心理学から導入したこと、つまり彼自身の科学史研究の結果ではなかったことも判明し、クーンの理論は今では全体として受け入れがたいものになっています。

 さらに、本書では現在の感染症問題も含めた科学知識と技術や社会の関係や、従来の科学技術社会論に対する批判的な見方を示しました(第9章)。日本では科学と技術の区別があまり明確にされていませんが、私は科学と技術は別物であると考えています。

 社会と直接に接する技術(医学も含まれる)の問題が新たに発生したとき、それは科学の問題ではなく技術の問題、つまり科学知識をその製品に実装する手続きの問題、システムを設計する人間の問題です。これは感染症問題でもまったく同じで、例えば、コロナウイルスの構造や増殖の仕組み、遺伝子の特徴が明らかになっても、感染した患者は酸素吸入で生命を維持しながら、自身の免疫が働き始めるのを待つしかない。科学知識だけでは何もできないことを認識すべきです。


再び密接になりつつある科学と哲学

──本書をサミール・オカーシャの入門書『科学哲学』を下敷きにして、生物学を中心に組み立てられた狙いを教えてください。

佐藤:私は、生物学や心理学で今分かっていることをしっかりと消化した上で、人間とは何か、心とは何か、を考察することが「あるべき生命哲学」だと思います。しかし、科学哲学の多くが依然、量子論や相対論の哲学的解釈など、物理学の別働隊のようなことをしているように私には見えます。いまだに物理学的な世界の理解の仕方、旧態依然の高校物理レベルの話で世界全体が理解できるという信念を持ち続けている人が多いように感じます。

 生物学の哲学にも歴史があります。19世紀から「生気論」やベルクソンの「生の飛躍」、進化論もヒトとサルの関係など哲学的な問題を含んでいます。その後、1980年くらいからは生物学の研究成果に基づいて生物学の哲学を考える「biophilosophy」が生まれて、今につながっています。

 私が翻訳した『生命科学の歴史』の著者のミシェル・モランジュ教授は哲学と分子生物学の2つの分野で、サミール・オカーシャ教授もやはり生物学を中心とした哲学を展開しています。今や科学研究の中心は生物学研究であり、生物を解明していく科学の営みを中心に据えた科学哲学こそが、現代社会における医療や健康、食の安全、環境などさまざまな問題に結びつく新たな視点を提供できるのではないでしょうか。

──第2章では科学と科学史、そして科学哲学との関係について述べられています。

佐藤:私はこの科学と科学史、科学哲学の三者を一体と捉えて総合的に考察する学問を「総合知としての哲学」と名づけています。

 学問の歴史において、もともと科学と哲学は一体のものでした。科学者はもともと、自分の科学のやり方を哲学的に考察するということを実践していました。デカルトやパスカルは科学と哲学の両方の実践をしましたし、ニュートンも哲学的な考察をしていました。アインシュタインの相対性理論ももともとは哲学的な考察に基づいています。

 昔の優れた学問は、論理的なもので経験的なものではありませんでした。実験というのはあくまで補助的なもので、理論の正しさを人々に見せるための見世物だったのです。医学の人体解剖も大勢の観衆を前に大講堂で行われていました。その後、17世紀のいわゆる科学革命を契機に、実験事実とそれを説明する理論を考える実験科学が生まれて、それと同時に哲学はむしろ思弁的なものへ退いていきました。

 現代の科学では、人間の感情や記憶、思考など心の問題が重要です。今は脳の構造や働きがくわしく分かるようになり、脳という物体と心の働きの関係が大きな関心の的となっていますから、心は思弁的な哲学や心理学の対象であり、脳は医学・生理学の対象である、という棲み分けはもうできません。科学知識が豊富になり、人間生活のあらゆる場面で活かされている現代では、科学と哲学が再び密接な関係を持てるはずです。


科学知識の源となる「第一原理」は存在するか?

──第4章「科学における説明」では、科学研究の役割は疑問に答える説明をすることではなく、現実の世界にあるさまざまな因果の連鎖の中から一部を抜き出して、その中間過程を解明するものと述べられています。一方で科学哲学における議論では、すでに分かっている論理関係や事実関係を前提として、それをどう説明するかという技術論に陥ってしまっていると指摘されていますね。

佐藤:学校教育では、科学知識はすでに確立した理論体系があって、それを現実問題に適用するという立場で教えられています。これまでの科学哲学や科学史の立場でも、科学ですでに真理とされることについて、それがどうして真理として確立されたのか、多くの場合は最新の研究成果を対象とするのではなく、歴史的に確立された理論を対象に後付けの説明をしようとします。相対論や量子論に関わる科学哲学、進化論に関わる議論もそうです。

 科学の研究では、ある新しい原理が発見されるとか、ある物質や天体が発見されるとか、今まで分かっていなかったことが分かるという面が確かにあります。しかし多くの場合、今までも現象としては観察されていたが、その中で何が起きているのかが分かっていなかったことについて理解ができるようになった、というものです。

 例えば、生物学研究でマクロに見た現象は分かっていたが、その中で実際に働いている遺伝子や分子を突き止めた、ということです。新しい天体や生物を発見した場合でも、既存のものと関連づけないとその発見の意義づけができません。そうして具体的なさまざまなものを扱う研究の中から、少しずつ新しい要素やものとものの相互作用が見えてくるわけです。

 私は比喩として「ネットワークモデル」というものを使っています。魚を獲るときの網目のようなものを想像してください。既存の理論や知識の編み目のどこかに位置づけるのか、それとも今ある網の外側に新しい部分を付け加えるのか。これまで考えられなかったような新たな仕組みや原理が発見され、その原理が編み目の他の部分にも適用できることもあります。

 私の階層的ネットワークモデルでは、新たな仕組みや原理は一つ上の階層に付け加わることになります。ただその原理も単独で存在するわけではなく、既存の原理との整合性が必要になるので、一段上の階層の編み目も細かくなることになります。この「編み目を細かくしていく」プロセスそのものが科学研究であると考えています。

 この階層的ネットワークモデルによって、科学の本質が見えてきます。これまで物理学の哲学で想定されていた、すべての科学知識の源となるような第一原理、つまり「網の始まり」にあたるところなどは存在しないということです。

 第一原理があると、そこからすべては論理的に演繹される可能性があります。自然科学の面白さは、身のまわりのすべてを支配している原理や理論を見つけることによって、あらゆる現象を説明できることだと思っている科学者や理科の先生は多いと思いますが、それは恐らく違うと思います。人間の能力には限界があるだろうし、世界がそもそもそういう形でできていないのではないか。

 科学をそう考察すると、第一原理は存在しないかもしれないし、誰も答えを知らない、という存在論的な疑い、つまり哲学の基本的な問題に到達します。私の階層的ネットワークモデルは、第一原理を振りかざすのではなく、網の目を細かくしたり、果てしなく広げていったりすることで科学という人間の営みは続けることができるのではないか、という提案なのです。


新型コロナが問題提起した科学理論の根拠

──研究者としての歩みを教えてください。

佐藤:高校から大学にかけては学園紛争の時代でした。既存の学問体系や教育秩序に対する疑いが噴出し、公害問題が公に認知されて深刻な問題だと認識されるようになりました。つまり、利益を追求するだけの産業界とそれを支える科学には何か問題があり、「産業界に奉仕している大学の教育システムにも問題がある」と考えられるようになった頃です。

 理系の学問だけでなく哲学にも関心を持っていて、ギリシア哲学からデカルト、サルトルなどさまざまな本を読みあさりました。ドイツ語やフランス語も勉強して、ゆくゆくは哲学や科学哲学を勉強する基礎にしようと思いました。その後、大学教員、生化学、分子生物学の研究者として光合成生物の遺伝子や代謝や進化の研究を続けていて、哲学を顧みる余裕はあまりありませんでしたが、2004年に東大教養学部の教員として戻ってきてからは、哲学と科学にも目を向けることができるようになりました。そして、科学と哲学の両面を総合して「生物はなぜ生きているのか」という根本問題に答えていこうと考えるようになりました。

──現代の日本において、科学哲学はどのような役割を果たすことができるのでしょうか。

佐藤:今回の新型コロナは、科学知識と医学の関係、学術的な知識と社会の行動規範の関係、さらには政治の役割など、重要な問題を考える契機になりました。例えば、無症状のまま人にうつす可能性があることや後遺症、抗体が再感染を防げない可能性、集団免疫による感染終息のシナリオが正しいのか、といったこれまでの感染症の常識を覆す問題提起がいくつもなされています。しかし、過去の感染症の歴史において、こうした問題は果たして厳密に評価されてきたのか、従来の医学的な理論は厳密な根拠の上に築かれてきたものなのか。私は偉い学者が「そのとき一番、確からしい仮説」(アブダクション)を作り、それが一人歩きしてきただけではないかと思っています。

 また、新型コロナは科学哲学の重要性を再確認する機会にもなりました。科学知識の持つ意味を正当に評価すること、その社会の行動規範を生み出す過程を監視することは、医学も含めて技術を外側から見つめる重要な活動です。昔の公害問題では、水俣病はチッソという大会社のやっていることだから文句は言えないとか、工業生産は日本経済を成り立たせているのだから大気汚染はやむを得ないとか、圧倒的な権力や、科学や技術の力でごまかされてしまうようなことがしばしばありました。現在の環境問題においても、科学知識や技術に対して監視の目を向け続ける活動が求められます。

 それから今回、世界一のコンピュータといわれる富岳を使ったシミュレーションの結果が、マスクがどれほど有効なのか、衝立の高さがどれだけあれば感染防止になるのか、といった行動規範の理由づけに使われました。科学の場では審査員がさまざまな注文をつけることで、どんな前提でどういう結果が出るのかが明確化されるはずです。

 そもそもシミュレーションの結果というのは基本となる式の立て方に依存しますが、現実的な問題に対する解答として、それを誰がどういう根拠でやったのかが明らかになっていない。この点を厳しく追及する人がなぜいなかったのかと疑問に感じています。

今後のテーマは「そもそも生命とは何か」

──今後、生物学者として挑戦したいテーマは何でしょうか。

佐藤:一番大事なテーマは「そもそも生命とは何か」です。世の中のすべてのことは、「不均一なものが均一になる変化」として捉えることができます。「太陽の光がもたらす高温と低温の不均一性が解消していく過程で、創発的に生まれる新たな不均一性が生命である」と理解するのが私の基本方針です。

 もう一つは「生物学における誤りを正すこと」です。科学というのは新しい発見をするばかりではありません。すでに出されている仮説の誤りをきちんと訂正していくことも、「編み目を修正する活動」として重要です。

 例えば、細胞の中でたまる脂質の小さな粒子が細胞質だけにあるのか、葉緑体にもあるのか、という問題があります。私は原理的には葉緑体にもあることを否定しきれないが、従来出されていた証拠は葉緑体のくぼみにはまった脂質顆粒を見ていただけだ、という解釈を提出しました。もし本当に脂質顆粒が葉緑体の内部に存在すると主張したいなら、それ相応のデータを出すべきだ、と。

 それから「細胞内共生説」という大きな問題があります。葉緑体の起源は、大昔に細胞に棲み着いたシアノバクテリアの細胞であるという説は、今や高校生物の教科書にも定説として載っています。しかし、科学史を調べてみるとその根拠が薄弱である上に、21世紀になってからゲノム情報に基づいて得られた分子系統解析の結果からは、とても複雑な状況が見えてきます。

 現在の教科書に出ているような単純な細胞内共生は間違いなのではないか、本当はたくさんの生物からのたくさんの遺伝子の導入で葉緑体やミトコンドリアができたのではないか、と考えています。この問題を解決して、教科書を書き換えるところまで持っていきたいと思っています。


科学知識はそれ自体が価値を生むものではない

──科学哲学研究の意義や、これから科学哲学を学ぼうと思っている人にその魅力を教えてください。

佐藤:多くの人には「科学は理系、哲学は文系」というイメージがあり、科学と哲学は別々だと思うかもしれません。しかし、今ある知識を総動員してものごとを考えるのが哲学のあるべき姿であり、本来は科学と哲学は一体のものでした。それはアリストテレスが目指したものであり、心身二元論に逃げこんでしまったデカルトも本来はそう考えたはずです。

 科学哲学は、科学知識の持つ意味を考察し、それを実際の人間生活に科学知識や科学技術を活かしていく際の根拠を考える学問です。科学知識は、決してそれ自体が価値観を生むものではありません。

 核分裂で莫大なエネルギーが放出されるという科学知識を、発電に使うのか、それとも爆弾として使うのか、あるいはどちらもしないのか。コロナウイルスの増殖の仕組みが分かったとしても、どう退治するのか。科学知識や生物学的な知識をどう利用し、どう人の役に立つようにして科学を社会に結びつけるのか。これは科学ではなく技術の問題であり、さらに技術を実現する政治の問題、社会的な選択の問題であり、その選択とはサルトルの言葉でいえばアンガジュマン(積極的な社会参加)です。この選択に疑問を投げかけ、再評価すること支える「道標」になることが科学哲学の大きな役割だと思います。

「疑うこと」が一番大切です。すでに確立したといわれるような理論や説明でも自分の力で理解し、おかしいと思うところは徹底的に疑うこと。証明されていることは何か、根拠は何か、仮説なのか、それとも何らかの検証を経たものなのか、証明の仕方があるのか、などと自分で考えてみることです。

 結局、それはギリシアの哲学者であるソクラテスがやっていたことと同じです。プラトンの対話篇では、それまで当然だと思われていたことにソクラテスがいちいちケチをつけて疑います。対話者はその疑問に誠実に答えていくことによって、だんだんと問題の本質が見えてきます。つまり、今まで知らなかったということが分かるようになる。この対話、弁証法「dialectique」といわれる手法はものごとを多面的に見ながら、知識を深めていくという意味で非常に重要で、若い学生の方に是非実践していただきたいと思っています。(構成:添田愛沙)

【参考文献】

●廣瀬覚訳『1冊で分かる科学哲学 サミール・オカーシャ』岩波書店 2008年

●森元良太・田中泉吏『生物学の哲学入門』勁草書房 2016年

筆者:尾形 和哉

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