老中・堀田正睦の外交とは?通商条約の違勅調印、罷免と一橋派の敗北…外政内政ともに翻弄された激動の生涯
2024年10月30日(水)6時0分 JBpress
(町田 明広:歴史学者)
堀田の帰府と井伊の大老就任
安政5年(1858)4月20日、老中堀田正睦は通商条約の勅許獲得を果たせず、失意のまま京都を発って江戸に到着した。そのわずか2日後の22日、堀田は13代将軍徳川家定に対し、越前藩主松平春嶽を大老に推挙した。しかし、堀田の意に反し、23日に井伊直弼が大老に就任したのだ。
井伊の就任は、家定本人の意志であることは間違いなく、さらに、老中松平忠固(上田藩主)の大奥工作も噂されており、いずれにしろ、堀田帰府前から画策・内定の可能性が高い。岩瀬忠震ら海防掛は、井伊就任に反対して老中を詰問しており、鵜殿長鋭に至ると、具体的に春嶽起用を主張した。
5月1日、家定は慶福(家茂)を継嗣とすることを大老・老中に達したが、あわせて、厳秘することを命じた。5月2日・6月19日、井伊に意見を求められた春嶽は、継嗣は慶喜とすること、条約調印は先延ばしすることを申し入れるも、当然のことながら不発に終わった。井伊はあくまでも、一橋派の動向を探るため、しらばっくれて春嶽に意見を求めたのだ。
5月13日、宇和島藩主伊達宗城は堀田・井伊に対し、春嶽を京都に派遣して通商条約に関する勅問に奏答することを勧説した。これは、春嶽の上京によって、一橋慶喜を将軍継嗣とする内命を得る逆転に向けた工作であった。堀田は同意も、井伊は不同意であり、5月22日に再度宗城から提案がなされたが、ここでも井伊は当然のことながら、不同意であった。
通商条約の違勅調印
安政5年5月15日、形勢不利と見た松平春嶽は堀田と会見し、さらに井伊直弼も松平忠固も論破して、建儲(将軍継嗣)の大策を定めるよう熱弁をふるった。同日、堀田は井伊に対し、継嗣も通商条約も違勅ではただではすまないと強弁するも不発に終わった。
なお、5月6日、大目付土岐頼旨が大番頭、勘定奉行川路聖謨が西丸留守居に、5月20日、目付鵜殿長鋭が駿府町奉行に左遷された。いよいよ、井伊によって一橋派の弾圧が開始されたのだ。安政の大獄の萌芽とも言える人事であった。
6月1日、幕府は御三家以下溜詰諸侯に将軍継嗣(具体名なし)の決定を告げ、翌2日には朝廷に奏聞し、勅裁をもって18日に発表の段取りを固めた。ちなみに、朝廷からの返信は直ぐにあったものの(日付未詳)、堀田はあえて井伊に告げず、一橋派のための時間稼ぎを行った。
6月19日、通商条約の違勅調印が行われた。一橋派は、対外情勢から調印はやむを得ないとの意見で一致していた。一方で、違勅調印を政治的に利用することを考え、これを強行したことを弁明するため、京都に使者(春嶽)を派遣することを主張した。春嶽派遣を実現し、ここでも、その際に朝廷から慶喜継嗣との内勅を得る策略であったのだ。
さらには、井伊に違勅調印の責任を取らせて幕府中枢から追い落とし、春嶽を擁立して形勢の逆転を企図した。なお、春嶽派遣が難しい場合は、忠固を派遣し井伊との分断を実現するとの腹案を持った。事態はいよいよ、風雲急を告げる最終局面に突入する。
堀田の罷免と一橋派の敗北
安政5年6月23日、突如として、堀田正睦・松平忠固の両老中が罷免された。同日、堀田は朝廷からの継嗣決定承認の返信を公表した。その経緯は不分明ながら、自身の罷免と関係があろう。万事休すと悟った堀田は、この段階での公表に踏み切ったのだろう。
6月24日、徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、水戸藩主徳川慶篤は不時登城し、井伊直弼に条約の無断調印を面責した。これには、将軍継嗣の公表を遅らせる深謀があったのだ。松平春嶽も登城し、老中久世広周に将軍継嗣発表の延期を勧説している。
しかし、こうした策略も功を奏せず、翌25日、家茂が継嗣となったことが公表されたのだ。ここに、一橋派の敗北が確定した。
堀田正睦の最期
安政6年(1859)9月6日、井伊大老の命で堀田は家督を4男の正倫(まさとも)に譲り、隠居を余儀なくされた。実は、井伊は時機を見ての堀田の再登用を検討しており、安政の大獄でも不問に付している。井伊は、堀田の堅実な政治行動を高く評価していたのだ。
しかし、堀田の再任は実現しなかった。安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変により井伊はこの世から去った。その後、文久2年(1862)11月20日、朝廷と幕府の双方からの沙汰で、堀田は蟄居処分となり、佐倉城で蟄居を強いられた。安政の大獄に対する、報復人事の一環であった。
元治元年(1864)3月21日、堀田は佐倉城三の丸の松山御殿において死去した。享年55歳、浮き沈みの激しいジェットコースターのような人生であった。なお、堀田の蟄居処分は没後の3月29日に解除されている。まさに、外政内政ともに翻弄された激動の生涯であったのだ。
堀田外交を総括する
堀田正睦は一貫した開国志向を貫き、積極的開国論・未来攘夷の推進者として幕末外交を牽引した。日本を鎖国から開国に転換させた、最大の功労者としても、過言ではないのだ。
堀田がいなければ、ハリスの出府は叶わず、通商条約の調印に至らなかった可能性が高い。さらに、イギリスによる最悪な不平等条約を押しつけられ、場合によっては植民地化の危険性も否定できず、日本の近代は全く違った可能性もあったのだ。
鎖国から開国にソフトランディングしたことで、日本を植民地化の危機から救ったのは、堀田にもかかわらず、現在のその評価は不当に低いレベルにあるのではないか。堀田の顕彰と幕末外交史の見直しは急務であろう。
筆者:町田 明広