『光る君へ』平為賢、藤原隆家の指揮のもと刀伊の入寇で活躍、「府の止むこと無き武者」と称された伝説の猛者の生涯

2024年11月4日(月)8時0分 JBpress

今回は、大河ドラマ『光る君へ』第41回「揺らぎ」に登場した神尾佑が演じる平為賢(たいらためかた)を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 


父は実資に仕えていた?

 関東の平氏は、桓武天皇の曾孫(孫とする説あり)・高望王が寛平元年(889)頃に臣籍に下り、平朝臣姓を賜り、上総介となって、関東に下向したことにはじまる(高橋修編著『常陸平氏』所収 高橋修「総論 常陸平氏成立史研究の現在」)が、為賢は高望の一男・平国香(もとは良望とも)の曾孫にあたる。

 為賢の祖父・平重盛(常陸平氏の祖)は、「平将門の乱」を鎮圧した功労者である平貞盛の弟だ。

 為賢の父・平維幹は重盛の子だが、貞盛の養子となったと考えられている(鈴木哲雄『動乱の東国史1 平将門と東国武士団』)。

 維幹は、秋山竜次が演じる藤原実資に仕えていたともいわれる(太田亮『姓氏家系大辞典』)。

 為賢は常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)を本拠としていた。

 だが、当時の武者は土地に縛られることなく、職業的戦士として活躍する場を求めて、列島各地を盛んに移動していたという(野口実『増補改訂版 中世東国武士団の研究』)。


刀伊の入寇

 平為賢は、これから延べる「刀伊の入寇」において、竜星涼が演じる藤原隆家の指揮のもとで大活躍し、「府の止むこと無き武者」と称された一人である。

 府の止むこと無き武者は、「大宰府の立派な武者」(倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』)、「血統書付の身分ある武者というほどの表現」(関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)などといったイメージで語られている。多くが拠点を京と鎮西の両方に持ち、功臣の末裔とされる(関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)。

 また、刀伊の入寇とは、寛仁3年(1019)3月末〜4月にかけて、刀伊(東女真族)が対馬・壱岐から北九州に攻め込んできたという大事件を指す。

 まず、寛仁3年3月28日、刀伊の兵船50余艘が対馬、壱岐に襲来し、殺人、拉致、放火の蛮行に及んだ。

 4月7日には筑前国の怡土郡、志摩郡、早良郡に侵攻。多くの人々を連れ去り、老人や子どもを惨殺し、牛馬や犬を殺して食したという。

 刀伊の襲来は4月7日に、大宰府に伝えられた。

 この未曾有の危機に、大宰権帥(大宰府の次官だが、実質上の長官)の任についていたのは、41歳の藤原隆家だった。

 歴史物語『大鏡』第四巻「内大臣道隆」によれば、隆家が京を離れ、大宰権帥となったのは、眼病を患い、大宰府にいる宋人の名医の治療を受けるという目的もあったという。

 理由はともあれ、この時、隆家が九州統治の事実上の最高責任者として、大宰府に赴任していたことは幸運だった。

『大鏡』によれば、隆家が善政を敷いたため、九州の人々は彼に心酔していた。

 隆家の人望と力量により、大宰府関係の武者たちと在地住人たちは一丸となって、刀伊の軍勢への迎撃態勢をとることができたという(野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』)。


府の止むこと無き武者・為賢の活躍

 隆家は4月7日と8日に京の中央政府へ飛駅使(早馬)を送り、現地の悲惨な状況や、自ら軍を率いて戦う旨を伝えた。

 隆家の指揮の下、為賢らは刀伊の軍勢を迎撃する。

 藤原実資の日記『小右記』寛仁3年4月25日条には、同年4月9日に、為賢(『小右記』には「為方」と表記される)とおそらく彼の一族と思われる平為忠が、「帥首(指揮官)」として敵軍に馳せ向かい、多くの敵を射殺したことが記されており、刀伊との戦いにおいて、為賢はめざましい活躍をみせたといわれる(野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』)。

 大宰府軍は奮闘し、同年4月13日には刀伊の軍勢の撃退に成功した(倉本一宏『藤原伊周・隆家 禍福は糾へる纏のごとし』)。


褒美は貰えなかった?

 京から届いた同年4月18日付の勅符(諸国に勅命を下すための公文書)には、「勲功者には行賞を与える」とあったため、隆家は11人の勲功者の名を連ねた注進状(報告書)を送っている。勲功者のトップに名が記されたのは、為賢だった。

 同年6月29日には陣定が開かれ、勲功者の処遇が議論された。

 意外なことに議論されたのは、勲功者にどのような行賞を与えるかではなく、行賞を与える必要があるか、否かであった。

 刀伊との戦闘は4月13日に終わっており、勅符が到着する前に勲功を挙げているのだから、行賞は不要ではないかというのが、その理由だった。

 渡辺大知が演じる藤原行成と町田啓太が演じる藤原公任は、「行賞は不要」と主張したが、藤原実資は「行賞を与えなければ、今後、奮戦する者がいなくなる」と意見し、最終的には行賞が認められた(『小右記』同日条)。

 だが、為賢は行賞を得られなかったかもしれない。

 史料に残る限り、行賞を貰えたのは、大蔵種材と藤原蔵規の二人のみだという(倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』)。


海賊も一目散に逃げ出す伝説の猛者となった?

 最後に、為賢にまつわる説話をご紹介したい。

 平安時代後期に編纂された説話集『今昔物語集』巻第二十八巻 第十五「豊後の講師(僧尼を管理し、経論を講説する僧官)、謀りて鎮西より上る語」の主人公は、豊後国の講師を務める老僧である。

 講師の任期を終えた老僧は、再任して貰うために、財を船に積み、京へ上ろうとした。

 航海の途中、老僧は海賊に襲われかけたが、「伊佐入道(法号 能観)」という武士だと偽ることで、海賊を退けたという説話が綴られている。

 伊佐入道は、東国での度々の合戦を生きながらえた猛者であり、その名を聞いた海賊たちは、「この船には、伊佐の平新発意(「平」は平氏、「新発意」は発心して新しく仏門に入った人の意)が乗っておられるのか。それは大変だ。ものども、早く逃げろ」と、鳥が飛び去るが如く、逃げ去ったという。

 この伊佐入道は、為賢に比定されている。

 本当に為賢だとしたら、行賞は得られなかったかもしれないが、荒くれた海賊たちが逃げ出すほど、その勇名は轟いたのだ。

筆者:鷹橋 忍

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