サービス残業、有給取得拒否、飲み会参加強制…ブラック労働は「現代の奴隷」と言えるか【ブックレビュー】

11月11日(月)10時43分 FINDERS

神保慶政

映画監督

1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。

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現代日本にも存在する奴隷制、賛否両論の歴史

奴隷制はかつて存在したもので、今は存在しないシステムだろうか? 植村邦彦『隠された奴隷制』(集英社)では、奴隷制が脈々と存続している事実を明らかにする。その場所は、貧困国・発展途上国だけではなく日本も例外ではない。現代日本に奴隷制的状況が偏在していることを、著者は奴隷制の歴史を振り返りながら浮き彫りにしていく。

「隠された奴隷制」というからには、隠されているのは奴隷制だとしても、何がどのような意味でそれを「隠して」いるというのだろうか。そして、ヨーロッパの賃金労働者が「隠された奴隷制」に囚われているのだとしたら、現代の私たちも「隠された奴隷制」の中にいるのだろうか。(P8)

この「隠された奴隷制」という言い回しは、資本家階級による労働者階級の搾取について論じたと一般的に認知されている、カール・マルクスによる大著『資本論』に登場する。この言葉に違和感をおぼえ、著者は一般的な『資本論』の解釈をさらに深めようとした。関西大学経済学部で教鞭をとり社会思想史を専門とする著者は、ロック、ルソー、モンテスキュー、ヴォルテール、アダム・スミス、ヘーゲルといった歴史に名を残す思想家たちが、奴隷制をどう受け止めていたかを振り返る。

本書を読みすすめると、教科書に「いい人」として載っているモンテスキューが、あからさまな黒人差別をしていることに驚くかもしれない。1755年に起きたリスボン地震で未曾有の大災害を経たヨーロッパを見聞したヴォルテールによる『カンディード、あるいは楽天主義説』で、奴隷制という常識を疑ってかかり、世の不条理に目を向けているヴォルテールの姿に時代を超越して感銘を受けるかもしれない。そのように本書の半分以上は、執筆のきっかけとなったマルクスを含め、思想家たちの主張・立場の整理にページが割かれている。専門用語も多いが、ぜひ辛抱強く読んでほしい。すると、奴隷制というシステムが、世の中の不条理と呼応して変幻自在に姿を変えてきた仕組みであることが、歴史的裏付けをもとに確信できるようになる。

「自己責任論」はマルクスの時代にも存在していた

本書では、数百年前の思想家たちについて論じている文章の各所で、現代社会の問題を指摘しているかのような一節に出会う。

奴隷は、どれだけ働いてもその結果としての「財産を取得できない人」なので、まじめに労働することに対する「やる気=インセンティヴ」も「動機づけ=モチベーション」もない、ということである。 (P64)

これは経済学の出発点と言われている『国富論』を記したアダム・スミスの章で、奴隷労働よりも賃金を払って労働者を雇用したほうがコストパフォーマンスはよかったのではないかと論じている箇所だ。コストパフォーマンスの低さがある程度認識されながらも、なぜ奴隷制が当時存続しえたのかが解説されている。これはプランテーション経営の利潤率の高さによるもので、詳しくは書中で確認いただきたいが、現代社会でも「わかってはいるけれども、やめられない」というような負のサイクルは同様に起こっている。

産業革命を経て、イギリスで奴隷制が廃止され、マルクスの『資本論』が出版された19世紀後半。人々は「自由な自己決定」のもと職業を選び始めていた。その裏である言葉が人々の間に流布し、奴隷制は隠され始めた。その言葉とは「責任」だ。

選択の責任を負い、働く人々。「蓄え」や「資本」、「勤勉さ」をメインキャラクターにした物語の中で、そうした人々の多くは責任という言葉のせいで自分自身が奴隷であることに気づいていないのだとマルクスは主張し、彼らを解放することに尽力した。

奴隷が受けるのが暴力的な「直接的強制」だとすれば、「自由な労働者」は、雇用されて働く以外に選択肢がなく、失業したら生きていけない、という経済的な「間接的強制」を受けているのである。しかも、「自由な自己決定」の結果については、必然的に「自己責任」が問われることになる。
このような状態こそ「隠された奴隷制」なのである。 (P142)

マルクスの時代から約150年、資本主義は世界中に浸透し、資本家の力はより強大になり、人間自身も人的資本としてみなされるようになった。ここまで読んでいただければ、責任という言葉の魔法がいまだに解けていないこと、21世紀の日本にも奴隷制が存在することに納得していただけるのではないだろうか。

心の弱さにつけこむ奴隷制に対抗する手段は、弱さの連帯

本書の終盤(全7章のうち5章以降)は、過労・自己責任・働き方など、歴史や思想に興味の薄い読者にとっても比較的親しみ深いトピックが並んでいる。定時で帰ること、休みをとること、馴れ合いの飲み会に行かないこと。これらは全て奴隷制と関係がある。4章ぶんの知識を得た後には、こうした一般的な事柄も見え方が違ってくるはずだ。

自分自身の労働能力が、未来の利益を生み出す「投資」の対象であるかのように論じられている。本当にそれが「資本」ならば、自分では働かなくても利潤や利子をもたらしてくれるはずなのに、少なくとも日本における労働者の実質的な拘束労働時間は、「八時間運動」がいまだに切実な要求になるほど長時間だ。(P158)

いくら働き方改革で勤務時間を調整したとしても、意識が変わらないことには抜本的な変化は生じない。実際、筆者もフリーランスではあるものの、うまく意識的にコントロールしないとフリーランスというのはそんなにフリーではないことに徐々に気づいた。好きな時に、好きなように仕事ができるとはいえ、取引する相手が土日休みの企業であれば当然その流れが自分の働き方にも影響する。期限内に原稿や編集を間に合わせたり、時間内に監督して一定クオリティの映像を撮ったりすることが仕事として要求される。自制を利かしてスケジュールや稼働時間を調節しないと、フリーとはかけはなれた働き詰めの状態になってしまう。しかし、仕事をやるかやらないかは自発的な選択として、自ら責任を負わなければいけない。

所定の労働時間内には終わらせることができないほどの仕事量(生産高や契約高)や納期の厳守を「目標」として課せられ、労働時間の規則もほとんどなく、睡眠時間も削って長時間の持ち帰り残業やサービス残業をせざるをえない状況に追い込まれながら、それは「自発的行為」と見なされて、その結果は自己責任だとされる。それが、現代日本における「強制された自発性」である。なんという倒錯した世界だろうか。(P201)

こうした資本主義の歪みによって、これからの国際社会はちょっとしたミスの連鎖が福島第一原発事故のような大事故を起こす「正常なアクシデント」に苦しめられると、ドイツの経済社会学者 ヴォルフガング・シュトレークの言葉を引用して著者は語っている。

そうしたアクシデントを是正して乗り越えていける「強い自己」を皆それぞれが持っていればいいだろう。しかし、そもそも人間社会はそのようにできていない。強さだけではなく、様々な弱さを持った人々が地球上には生活しているからだ。弱さを補い合うことは、日本に限らず現代人が最も苦手とすることだろう。新書サイズだが膨大な情報量が聡明な視点で整理されている本書は、その苦手意識を克服する上で大きな助けとなる。「奴隷制」という言葉の物々しいイメージに反して、読んだ後にどこか優しい気持ちになれる一冊だ。

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