『チ。―地球の運動について―』15世紀欧州、禁じられた「地動説」を命懸けで研究、惨たらしく、殺伐とした人間讃歌
2024年10月1日(火)6時0分 JBpress
(文星芸術大学非常勤講師:石川展光)
「チ」は地動説の「地」、知恵の「知」、そして「血」
オリオン座のベテルギウスが超新星爆発を起こすと、その光は640年後に地球に届くらしい。つまり今夜、私たちがそれを見るとすれば、その光は1380年ごろのそれなのである。それは、ほぼこの物語の時代の光、ということになる。
15世紀──まだ天体が地球の周りを動いているとされた時代。
今回取り上げる魚豊著「チ。—地球の運動について—」の舞台はヨーロッパの某国である。キリスト教の影響は今では考えられぬほど強力に人々を支配し、文字の読み書き(ラテン語)は特権階級だけが持つスキルであり、そして「個人」という概念はないに等しい世界の物語だ。
「チ。」は惨たらしく、殺伐とした物語である。
決してハートウォーミングなヒューマンドラマではない。しかし見事な「人間讃歌」だと言い切れる。
地動説をめぐる群像劇が、きわめてスリリングに描かれた傑作だ。珍妙なタイトルだが、これは地動説の「地」、知恵の「知」、そしてそこで流される「血」の音読みに由来している。そして主人公不在にも思える物語の主役は、まさにこの「チ」であると言っても過言ではない。多くの名作に共通していることだが、端的で秀逸なタイトルである。
異端審問による拷問シーンから、この血生臭い物語は始まる。老若男女を問わず、登場人物の誰がいつ死ぬかわからない。サスペンスに満ちた展開が、ページをめくる手を加速させてくれる。お世辞にもすごい画力とは言えないが、作品の品質には全く問題ない。今や漫画は「画力が3割」だと言っていい。ストーリー、構成、キャラクター、セリフ、コマ割りから、いわゆる “めくり”(左ページ左下のコマ)まで考え尽くされている(その点では「進撃の巨人」に近い)。
最後までまるで先が読めない、ミステリーとしてもきわめて優れている。ギャグシーンもないではないが、今風の乾いた笑いだ。
最大の魅力は「濃厚すぎる対話」
本作の最大の魅力は、極限の緊張の中で交わされる「濃厚すぎる対話」だろう。全く分かり合えない人々が、自分の正当性と正義について巧みに討論するのである。
聖職者が、拷問吏が、学者が、革命家が、父が、子が、娘が、それぞれの信念と人生を賭けて戦うのだ。……で、結局悲しいことに、誰も分かり合えない。
この展開はどうやら「弁証法」というものに則っているようだ。乱暴に言えば「正反対の考えをぶつけ合って、新しい考え方を紡ぎ出そうぜ」というアレである。
それにしても今作の登場人物たちといったら、まあ揃いも揃って、全然話が合わないのである。そのために殺し合いさえ厭わないのだから、お互いに堪ったものではない。
そして毎回その度に(好むと好まざるにかかわらず)「新しい道」が拓けていく。そういうふうにして物語は流転していくのであるが、この死ぬほど切ない信念と信念のぶつかり合いは、いうまでもなく、有史以来、今現在も世界中で進行中だ。
そもそも地動説といえば、コペルニクスとガリレオが有名だが、この作品の主軸となるのは、ほぼ全員架空の人物、つまり「名もなき人々」である。読み始めた頃は、いつになったら知の巨匠たる彼らが颯爽と登場するのだろうと思ったが、その予想はあらゆる意味で覆されることになる。
要するに、これを偉人伝にしてしまうと、この作品の本質から離れてしまうのである。
なぜか。
それはこの物語のテーマが「ニンゲンの普遍的な矛盾と葛藤」だからである。「地動説がどのようにして世界に認められたか」ということではないのだ。
強い信念のままに生きることの尊さ
そもそも、名もなき人々には、天が動こうが地が動こうが、超どうでもいいことである。そんなことを考えるのは多分、面倒臭い変人なのである。ガリレオやニュートンがそうであったようにだ。
今も、名もなき人は、満天の星空を見上げれば「うわあ」というあの感動だけで十分満足するし、ベテルギウスの寿命や火星の運行など、思いもかけない。しかし、今作の登場人物たちの多くは、この「うわあ」で星空を眺めたりしないのである。
徹底的に観測し、記録する。そして「動いているのは地球なのだ」ということを証明しようと躍起になり、その一方でそれを抹殺しようと奮闘するのである。
「なぜそこまでして」と読み手は思うかもしれない。それは多分、感覚的には正しい。しかし登場人物たちの思惑や主張の強さ、鋭さに憧れを抱くはずだ。それぞれの信念の強さ(もちろんそれは偏見や思い込みの強さに比例しているのだが)が、それぞれの人生に強い陰影をもたらし、輝いているからだ。そして読者はその妥協なき衝突に強く惹かれるのではないだろうか。
人生を賭けるに値する強い信念を持てること。それをとても羨ましいと感じるのではないか。
本作でも大いに語られているが、人間はみな、自分の主観と都合だけを世界の全てにしてしまう生き物である。あらゆる手段でそれを正当化し、押し合いへし合いして生きていかねばならない業の深い存在である。
そして死ねば皆、土ん中である。諸行無常の世界の中で、何を遺せるのか。名声か、金か、あるいは子孫か。本作に描かれているのはそのどれでもない。ただただ、強い信念のままに生きることの尊さだ。それは登場人物たちの今際の際の描写にも明らかである。
冒頭にも述べたが、物語は常に意外な展開で終始する。その顛末はぜひお手に取って、あるいはアニメ作品でご覧いただきたい。
2022年4月の「ビッグコミックスピリッツ」で連載終了したこの作品のコミックス第1集〜第8集は累計百万部を超え、なおかつ10月5日からNHKでアニメが放送開始されるのは嬉しい。アニメ製作は「パプリカ」「サマーウォーズ」などを手がけたマッドハウスだ。
声優陣も、津田健次郎、坂本真綾、速水奨と大変に豪華だ。「対話」が物語の主軸となる作品なだけに、実力派揃いなのは期待値が格段に違ってくる。
心の底からお勧めできる作品である。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)
筆者:石川 展光