『ベルサイユのばら』『イノサンRouge』ともにフランス革命前夜を描きながら圧倒される、正反対の「様式美」
2024年11月12日(火)6時0分 JBpress
(文星芸術大学非常勤講師:石川展光)
『ベルばら』の乙女の美学と『イノサン』のSMの美学
「あなたは薔薇のさだめに生まれましたか?」と聞かれて「はい、私は薔薇のさだめに生きています」と答えられる人がどれほどいるだろうか。いるとすれば、芸能界か夜の世界に住まう人々くらいのものであろう。
そうでもない私たち民草は、やはりどうあがいても、ただただ風にそよいでいればいいだけであるし、そのほうがよっぽど気楽なのである。
今回紹介するのは、そんな気高き薔薇のさだめに生まれた人々の物語である。池田理代子原作の少女漫画の金字塔として名高い、様式美の極致『ベルサイユのばら』(以下『ベルばら』)が2025年1月31日に劇場公開となる。半世紀前の伝説的名作アニメのリメイクである。アニメ製作は『どろろ』『進撃の巨人(The Final Season)』などを手がけたMAPPA。声優陣は、オスカルに沢城みゆき、マリー・アントワネットに平野綾という興味深いカップリングだ。
男装の麗人、貴族たちの華やかな恋愛模様、そして革命……。全てのキャラクターが華麗によろめきまくる、あの『ベルばら』である。その世界観は今も多くの乙女たちを魅了し続けているようだ。
ここまで語っておいて何ではあるが、私は正直、つい最近まで『ベルばら』には興味が持てなかったことをここに告白しておく。今は違う。坂本眞一の『イノサン』を読んでしまったからだ。
舞台は『ベルばら』と全く同じ、フランス革命前夜のパリ。設定もほぼ同じであるが、その様式美は全く違う。漫画史上最凶とも言える残酷物語なのだ。
簡単に言えば、『ベルばら』は乙女の美学である。革命なので人がいっぱい死ぬが、そのどれもが痛さを感じさせない描写である。『イノサン』は真逆である。むしろ、痛みの美学である。嗜虐と被虐の美学。簡単に言えばSMなのである。それが本家を遥かに上回る様式美で描かれているのである。
フランス革命を描いている以上、両作品とも登場人物がほぼ全員死ぬという運命には逆らえない。ゆえに「滅びの美学」というテーマは不可避になる。しかし『ベルばら』は、気高く咲いて美しく散る薔薇が描かれているが、『イノサン』は、それが雑草であろうが薔薇であろうが、散らすのである。「散る側」と「散らす側」。それがこの両作品のアングルの違いである。
なんといっても『イノサン』はとにかく絵が圧倒的で全コマが絵画である。そして面白いことに、書き文字(ゴゴゴとかドーンなど)が使われていない。そんなものを入れる余地はないと言わんばかりに、卓越した画力で表現している。こんな漫画は見たことがない!
それなのにキャラクターは一様に顔が似ているのである。当然見分けられない程ではないが似ているのだ。もちろん本家『ベルばら』も同様だ。終盤のアンドレとアランの取っ組み合いを見ると、もみあげだけでアランを識別していることを自覚するはずだ。
卓越した画力がありながらも、なぜ作者たちはキャラクター分けを顔に頼らないのか。それはつまり、それが様式美の本質だからなのである。ある要素が極端に強調される一方、その他の要素はすこーし違うだけでいいのである。
この感覚はヘヴィメタル、宝塚歌劇、バレエ、演歌などに共通している。そのジャンルに関心のない人たちにとっては、「全部同じに見えるんだけど」と思わせる。そういう意味で言えば、『ベルばら』は歌劇、『イノサン』はデスメタルに喩えられよう。内容はほとんど同じなのに、視点によってかくも真逆の様式美が成り立つものかと感心せずにはいられない。
『イノサン』にもオスカルはいる
マリー・アントワネットをはじめフェルゼン、デュ・バリー夫人、ルイ16世、そしてアンドレまで登場する。ではオスカルは? オスカルは出てこない。が、代わりにシャルル=アンリ・サンソンとその妹であるマリー=ジョセフ・サンソン(兄妹)が登場する。彼らはフランス王国に実在した「処刑人一族」である。
死刑執行という誰もやりたがらない仕事を請け負うアンタッチャブルな存在で、刑罰として言語に尽くし難い苦痛をもたらす首切り役人だ。一刀のもとに斬首する技能を持ち、人間の急所を知り尽くした闇のプロフェッショナルであるが、それ故に民衆から蛇蝎の如く忌み嫌われ、目を合わせることさえ不浄とされた存在である。特権階級として貴族並みの高給が支払われたものの、彼らの社会的地位は完全に疎外されていた。
『イノサン』は二部構成となっており、第一部では兄シャルルが扱われる。実在した人物で、2700人余りを処刑したという。しかし彼は死刑執行人であるにも拘らず、死刑廃止を訴えた「善人」である。そして彼は王党派、つまり王室に限りない忠誠を誓っていた。その手で主君たるルイ16世の首を断頭台にかけることになることも知らずに。それだけでなく、マリー・アントワネットもロベスピエールもサン=ジュストも元カノだったデュ・バリー夫人も手にかけている。
シャルルはせめてできるだけ痛みを感じさせないで処刑しようと、可能な限り策を講じた。彼自身は痛みを感じることで自らの「無垢」を証明しようと自律している人間である。つまり、自らの穢れを痛みで償うマゾヒストなのだ。
そんなシャルルとは対照的なのが第二部『イノサンRouge』の主人公、マリー=ジョセフ・サンソンである。幼くして倒錯しきった嗜好を持ち合わせたサンソン家きっての跳ねっ返り。女だてらに死刑執行人として生きることを強く望む、生粋のサディストである。一応実在してはいるが、キャラクターは完全な創作だ。お察しの通り、彼女が『イノサン』におけるオスカルなのである。
本家同様、ちゃんとマリーも自分が女であることを呪ったり、葛藤したり、女も男も両刀使いで誑(たぶら)かしたりもする。だがそのやりかたはきわめてダーティーだ。処刑に悦楽を見出し、時にわざと惨たらしい処刑で断罪する。人を人とも思わぬ傲岸不遜な態度で周囲の顰蹙を買うが、一向に気にする素振りも見せない。また、侍従の名は「アンドレ」で、本業も宮廷衛官である。これがこのオスカルでなく誰だというのか。
この兄妹の最大の違いは「罪悪感」の有無であろう。兄シャルルは必要以上に深く罪悪感を感じ、妹マリーはどれだけ酷いことをしても罪悪感を感じない。人を殺すことの罪悪感をシャルルは償うことで「無垢」であろうとする。暴論かもしれないが、マリーは全く意に介さない、つまり天衣無縫なところが「無垢」であるとも捉えられる。
人間に与えられた唯一絶対の「無垢」とは、いずれは誰でもこの世から何ひとつ持っていけずに立ち去るという、きわめて平等なさだめのなかにあるのかもしれない。それは生まれ落ちた瞬間から穢され、傷つき、歪みつづけていくけれども、再び死の救済によってまた与えられるものなのではないだろうか。
『イノサンRouge』が『ベルサイユのばら』のパスティーシュ(模倣・パロディの一種)であることは間違いない。あらゆるシーンにおいてよく分かるようにできている。しかしこれはパクリではない。原典に強い敬意を持った上での挑戦なのである。
『イノサン』に出会えなければ、わたしは古典的名作『ベルばら』を読まなかっただろう。そしてその様式美の美しさに、その神がかり的な筆力に深く感動することもなかっただろう。名作というものは須くアップデートされていくものなのである。時代の手垢にまみれたまま消えていく作品は多い。しかし名作が残す遺伝子は、時代にあわせてかたちを変えて繁栄するものなのである。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)
筆者:石川 展光