【名馬伝説】パリに降り立った天馬のような日本馬・エルコンドルパサー、世界が認めた歴史に残る「凱旋門賞」の激走
2024年11月19日(火)6時0分 JBpress
(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)
昭和歌謡研究家・堀井六郎氏はスポーツライターとしての顔もあります。とくに競馬は1970年から今日まで、名馬の名勝負を見つめ続けてきました。堀井氏が語る名馬伝説の連載です。
シンエンペラーの凱旋門賞と日本馬挑戦の歩み
2024年10月6日、フランスはパリ近郊ブローニュの森にあるロンシャン競馬場で、今年も世界最高峰のレースのひとつとして知られる「凱旋門賞」が開催されました。
日本からはシンエンペラー(坂井瑠星騎乗、矢作(やはぎ)芳人厩舎所属)1頭が参戦、2400メートル芝コースで行なわれましたが、残念ながら16頭立ての12着に終わっています。
シンエンペラーは牡3歳、今春、日本のクラシックレース「皐月賞」では5着、「東京優駿(ダービー)」では3着といった成績で、凱旋門に赴く日本馬の成績としては若干物足りないものでした。それでもなお同馬を管理する矢作調教師には「一縷の夢」というか、「もしかしたら」との思いがあったのでしょう。
それは、シンエンペラーの全兄(父馬と母馬が同一)であるソットサス(フランスの名馬。「そっと差す」ではありません)が4年前の2020年の凱旋門賞で優勝していることが大きく影響しています。
シンエンペラーは今から2年前の2022年、フランスで行なわれた1歳馬のセールで、約3億円で落札。実質的な落札者は後に同馬のオーナーとなった、サイバーエージェントの代表として知られる藤田晋氏でした。
同馬は日本でのデビューから2連勝を飾り大いに期待されましたが、その後の戦績が今ひとつ、それでも海外遠征志向の強い矢作調教師はあえて挑戦、凱旋門賞大敗後のインタビューでは馬場の違いなど一切の言い訳をせず、潔く負けを認めていました。
凱旋門賞と日本馬挑戦の歩みを振り返ってみると、1969年のスピードシンボリがその嚆矢(こうし)となります。残念ながら結果は着外。当時は10着までの記録しか残っていないのでスピードシンボリの正式な着順は不明ですが、24頭立てで11着以下の大敗でした。
帰国後に挑んだ有馬記念を同馬が制したことで日本の競馬ファンは彼我の差をまざまざと痛感したことでしょう。なお、私の競馬記憶はこのころから始まっています。
凱旋門に残したエルコンドルの蹄跡
スピードシンボリから30年後、1999年10月、天馬のような日本馬がパリに降り立ちます。エルコンドルパサーです。
エルコンドルパサーという名は、音楽にくわしい方はおわかりでしょうが、南米ペルーの歌をサイモン&ガーファンクルがカバーしたことで知られる『コンドルは飛んでいく』のスペイン語(El Cóndor Pasa)です。父馬がキングマンボという名だったため、マンボから南米の音楽を連想、『コンドルは飛んでいく』へと至ったことのようです。
エルコンドルパサー(以下、エルコンドルで統一。かつて親しみをこめてそう呼んでいたので)が出走した同10月3日の第78回凱旋門賞は歴史に残る名勝負となりました。
14頭立てのこのレースには例年以上に欧州競馬の強豪が集結、特にそれまで7戦6勝、エルコンドルより1歳若い地元フランスの代表馬モンジューが出走するというので注目度がさらに増しました。
含水量が半端でないかなりの不良馬場の中、好スタートを切ったエルコンドルはそのまま4コーナーまで先頭を行きます。ゴールまで残り100メートルになったあたりからです。中団から抜け出てきたモンジューとのマッチレースとなり、最後は惜しくも半馬身差でモンジューの軍門に降(くだ)りました。ただし、3着馬との差は6馬身もあり、この2頭がいかに傑出した実力馬だったかがわかります。
エルコンドルが負けた相手のモンジューが背負った重量(斤量)は56キロ、1歳年上のエルコンドルのほうは3.5キロ重い59.5キロという条件でした。
競馬の世界では斤量が1キロ違うとゴールで1馬身の差が出ると言われているので、3.5キロだと3馬身半の違いになります。
今さら「れば、たら」を言っても仕方ありませんが、勝ち馬モンジューとの着差は半馬身だったので、同斤量での競馬だったら問題なくエルコンドルに勝利の女神が微笑んだことでしょう。あいにく四半世紀が経過した今になっても、不公平さに関する女神からの謝罪の声は聞こえてきませんが。
なお、「エルコンドルパサー、頑張りました!」の実況が泣かせるレースの画像はYouTubeでご覧になれます。
このときのレースは世界的に高く評価され、レース後、モンジューは135、エルコンドルは134という世界最強クラスのレーティング(能力度)を与えられています。
この数字は昨年、イクイノックスの135に抜かれるまで長く保持されていた日本歴代の最高値でした。世界が認めたエルコンドルの実力の証ですね。
出でよ、エルコンドルを超える逸材
1999年10月3日の凱旋門賞激走を最後に、エルコンドルパサーは馬場を去ります。
凱旋門賞の翌月、11月28日、ライバル馬モンジューは東京競馬場で行なわれたジャパンカップに参戦、あのエルコンドルパサーを破った馬ということで話題を呼びましたが、パリからの遠距離遠征の影響で体調が整わず4着に沈みます。
この日、ライバルだったエルコンドルは引退式のため昼休みに本馬場に登場、凱旋門賞出走時のゼッケンをつけファンに最後の雄姿を見せてくれました。
私を含め多くのファンが「引退せずに、おまえもジャパンカップに出て来いよ」と思ったことでしょう。
エルコンドルは数え5歳で引退後、種牡馬として大きな期待を持って迎えられましたが、残念ながら2年後には腸捻転で死亡、それでも3頭のG1馬を出し立派な血脈を残してくれています。
スピードシンボリの参戦から55年、エルコンドルの激走から25年、冒頭のシンエンペラーまで32頭の馬が35回挑戦していまだ手の届かぬ凱旋門賞という頂き。
今年も果たせなかった夢のレースですが、いつか必ず、というより案外、来年あたり優勝馬のウイニングランが見られるかもしれません。
特にこれといった根拠があるわけではありませんが、世界ランク1位のイクイノックス(昨年12月に引退)を輩出した日本競馬のレベルなら、その日が来るのはそう遠くない、私はそう思っているのです。
私の仕事場にはシンボリルドルフの1985年カレンダーとともに、エルコンドルとサイレンススズカの写真パネルが飾られています。独断ではありますが、私がリアルタイムで見てきた競馬歴の中で、この3頭が数え5歳時の実力馬歴代ベスト3だと思うからです。
エルコンドルは数え4歳時の秋、1998年の毎日王冠で1歳上のサイレンススズカと対戦。2馬身半差で2着に敗れていますが、エルコンドルが日本で負けたのはこのときだけです。
このレースにはもう一頭エルコンドルと同年齢で無敗だったグラスワンダーも出走、G2レースにもかかわらず13万人ものファンが東京競馬場に押し寄せた「史上最高のG2レース」として、そしてエルコンドルが日本の地で負けた唯一のレースとして、長く競馬ファンの記憶に刻まれています。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)
筆者:堀井 六郎