83歳筆者が考える「東京五輪と大阪万博」...あのころと今、時代は明らかに違う

11月22日(火)11時0分 Jタウンネット

大阪万博(m-louisさん撮影、Flickrより)

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2020年の東京五輪に続き、2025年、大阪に万博に招致しようという動きが本格化している。まるで、昭和の歴史をもう1度おさらいするような展開だ。


昭和8年(1933年)生まれのぶらいおんさんは、前回の東京五輪、そして大阪万博を、いずれも働き盛りの年代に体験している。特に大阪万博については、実際に会場へ訪れもした。当時の経験を交え、一連の「リバイバル」について論じてもらった。


「万博を観て来い!」という職場の後押しを受けて


2020年の東京オリンピック開催、そして2025年の大阪万博招致が現実味を帯びて来た、という。


一般的に言えば、「60年代、70年代の夢よもう一度」、ということなのであろうか。


過去の両イベントを、いわゆる現役時代に経験した人間として、どう?思うか、と問われて、考えてみた。


この「リバイバル」ブームとも言える動きを、単純に「よい、悪い」とは言いたくないが、先ず、(当たり前だが)当時と今とでは時代が明らかに異なる、と考える。当時の日本経済は上昇傾向にある中で、インフラの拡張に関しては、まだまだ大きな伸び代(のびしろ)が存在した。


この過去の両イベントを契機として、高速道路網の飛躍的発展や主として東京と大阪とを結ぶ東海道新幹線が整備されたことは間違い無い。当時、筆者も暮らしており、仕事やプライベートでも歩き回っていた東京の街、特に主要道路などでは、到る所で工事が行われており、また、殆どの場所で日中の工事は出来なかったので、深夜から夜明けまで工事現場には煌々と灯りがつき、眠りを知らない労働者達と、眠らない都会という記憶が現在でも強烈に残っている。


当然、世の中は活気に満ち溢れ、豊富な建築資材が次々と運び込まれるような有様を呈していたが、筆者達のように、敗戦直後の丸焼けで、黒焦げのやせ細った柱のみが僅かに林立する東京の光景を見知っている世代からすれば、ようやく日本もここまで復興、成長して、外国人達を胸を張って迎えることが出来る状態にまで到達した、という感慨が無量であったことは間違い無い。


しかし、当時でも、オリンピックを開催した国では、その後に色々な問題が派生すること、たとえばイベントの為に費用を掛け過ぎて、その国の経済に何らかの後遺症を残している例などが指摘されていたように思う。


しかし、筆者の記憶では、そういった危惧を撥ね除ける国民の期待と同時に実質的な経済力が備わっていた、と思う。その点、どうだろう?矢張り、今は当時とは日本の経済状況も異なっているように思える。単純に、「60年代、70年代の夢よもう一度」というわけには到底行くまい、と考える方がむしろ、自然では無いだろうか。


それ故、2回目の東京オリンピックに関し、無闇矢鱈に箱物を増やし、余計な費用を割合無神経に掛ける方向に偏っているように見えるのは、ちょっと問題では無いか?と考える。おまけに、もう過去の人であるはずの人間がしゃしゃり出て来て、高額の家賃が必要な建物にオフィスを構え、人を集めて裏の方で采配を振ったり、表の活動にいちゃもんを付けたりしているような報道を見る度に、こんなことでは「夢がもう一度来る」どころか、大変な後遺症をもたらしたり、無意味な浪費と、負債を残したりしないか?と心配でならない。


また、(短絡的に結びつけるものでは無いが)古代ローマ時代の、いわゆる剣闘士試合、特に、本来は死者を悼む「追悼闘技会」が政治家のプロパガンダの場と化して行き、公職選挙と闘技会の結びつきが、帝政時代初期頃まで続いた、という故事(ウィキペディアの「剣闘士」の項参照)からしても、アスリートたちの健闘を政治的に利用しよう、という動きは、どこの国にも多かれ少なかれ認められ、関連する具体例としては、自分の国のアスリート達に好成績を上げさせるため、国を挙げての(無論、当該国は国の関与を認めていないが)ドーピング問題が世界を騒がせたことも記憶に新しい。


そういった意味で、(今の世も、将にそうだ、と言い切れると思うが...)政治的な行き詰まりを、アスリート達の活躍に目を向けさせて、ガス抜きを図ろうとする政治家達の術策に陥ることのないよう、目を光らせることもまた、決して忘れてはならない。


先の東京オリンピックの際の、自分の経験を率直に披露してみよう。元々、いわゆる体育会系ではない筆者なので、そこそこの関心は無論、有していたが、特別なルートを有するわけで無し、真面に申し込んだ開会式の入場券などは人気が高くて落選した(オリンピックの入場券の購入は、種目によって希望者が多い為、先ず、はがきで申し込んで、当選することが要件とされていた。)し、もう今では何の競技だったかも忘れてしまったが、然程人気の無かったスポーツの入場券だけが僅かに購入可能であった。


それに、当時は国中が経済発展に(或る意味で)酔いしれており、余り考えること無く、誰でも馬車馬のごとく働くのが当たり前だった雰囲気の中で、一介のサラリーマンが休暇を取って、「オリンピック競技の観戦に行きます。」などと言えるような状況は全く無かった。


だから、筆者も含めて、普通のサラリーマン達のオリンピック観戦は、専らテレビ桟敷で、それも夜中から深夜までの(中継放送では無い)再放送というのが、定番であった。それでも、東洋の魔女と呼ばれた日本女子バレーチームがソ連(当時)のチームと息詰まるような接戦を制して優勝を勝ち取ったゲームには大変感銘を受けたし、興奮して応援したことを(些か)懐かしく思い出す。このチームを率いた大松博文監督の「俺についてこい!」は、当時の流行語となった。


我々のようなサラリーマン達は、大体そんなものだったろうが、子育てなどで昼間家庭に居る主婦達の一例として、筆者家人の場合は、偶々住んでいたのが甲州街道(国道20号)沿いであった為、マラソン大会は家から数分歩いた道路沿いで有名選手を応援することが出来たようで、当時、世界的に名を知られたエチオピアのアベベ選手などを身近で応援できた、と聞いている。


このような経験は、矢張り東京オリンピックが開催されたからこその、一般庶民の体験と言えよう。従って、このような経験を広く享有できるようになる、という観点からはオリンピックのご当地開催も悪くはなかろう。だが、今は先の東京オリンピック時代とは日本の置かれた(経済的、社会的)状況も異なる。だからこそ、注意すべきは(現在も進行中であるようだが、会場選定のための4者協議で)、極力、無駄な出費の回避に努めるべきだし、特に問題が無ければ、東京一極集中に拘る必要も無いだろう。


次いで、1970年の大阪万博について、筆者の体験を交えながら、書いてみよう。


ウィキペディアによれば、日本万国博覧会(英:Japan World Exposition)は、1970年3月14日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された国際博覧会、とある。


先ず、この万博が記憶にある世代では、三波春夫が歌った「こんにちは、こんにちは 世界の国から...」で始まる万博テーマソング「世界の国からこんにちは」(作詞:島田陽子、作曲:中村八大)が耳に残っていることであろう。この特徴のあるメロディーと共に、筆者には個人的に詩人仲間の一人で、面識もあった、作詞家島田陽子さんの顔が目に浮かぶのだが、この東京生まれ、大阪で活躍された詩人も今は世に亡い。作曲家、歌手もまた、同様だ。今となっては、将に隔世の感がある。


そして、『「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加し、戦後、高度経済成長を成し遂げ、経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとして、大阪万博は開催された。日本においては1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用された。』


また、『大阪市など会場周辺市街地では万博開催への整備がなされ、道路や鉄道・地下鉄建設など大規模開発が進められた。一方、(中略)1970年に予定されていた日米安保条約改定に関する議論や反対運動(70年安保闘争)を大イベントで国民の目からそらすものだとして、大学生らによる反対運動も行われた。』


上でも述べたように、どちらかと言えば、いわゆる文化会系の筆者にとって、万博は大いに関心があった。世界の何処かで開催されたとしても、そう気易く出掛けられるわけのものでは無い。それが国内で開催され、世界中の各地から運び込まれた文物を容易に、直に観る、場合により体験できる、というのは、大変魅力も関心もあった。


ただ、東京に居住する者にとっては、矢張り大阪は離れた地であり、暇を観て気軽にぶらっと出掛ける、というわけにも行かない。しかし、当時一部上場の化学工業会社から転職した、筆者の勤務先である東京丸の内の特許法律事務所では、所長の方針で、各人の知識レベルアップを目的として、勤務先自体が大阪万博見学のための交通費などの費用を支援する、という方針が打ち出され、積極的に「万博を観て来い!」という雰囲気があった。


そんなわけで、筆者も早速この制度を活用して、千里丘陵の国際博覧会へ見学に出掛けた。


何と言っても、この大阪万博の売りは、テーマ館の岡本太郎による「太陽の塔」、そして特にアポロ12号が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館やソ連館などであり、これらの、人気パビリオンでは数時間待ちの行列ができるなどして大変混雑した。


特に、アメリカ館の行列は延々と続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かった。その異常な混雑ぶりから、テーマをもじって「人類の辛抱と長蛇」や「残酷博」と揶揄されたことがある。だが、このイベントは国際博覧会史上初めて黒字となった、という。


正直に言うと、筆者はこれらの人気パビリオンには、実際のところ、どれにも入館していない。それは無論、限られた時間内での見学という制約もあったが、筆者自身の性格というか、方針による結果でもある。それはどういうことか?と一言で言えば、「長い行列」がそもそも嫌いだ。ということに尽きる。


仰々しく、殊更「トラウマ」などと言う気も無いが、「長い行列」というのは、戦時中の惨めな配給の行列を連想させるので、どうしても生理的な嫌悪感が先に立つ。


経験の無い方には到底理解出来ぬかも知れぬが、黙々と奴隷のように黙って、ひたすら「ただ、食うためだけに」襤褸を纏って(というほどで無くても)、衣服材料も不足してスフ(ステープル・ファイバー)と呼ばれた、直ぐにすり切れてしまう粗悪な材料で製造された、国防色の軍服まがいのデザインの衣服ばかりが目立ち、食べ盛りの子どもたちを抱えた親たちは、特に栄養失調気味の、顔色の悪い状態でありながらも、兎に角、反抗の気配を見せたり、文句を言う気力も無く、生きてゆくのに、やっとの量の米や麦、あるいは代用食と呼ばれた甘藷やかぼちゃの配給の列に、品物が手に入るまで、無言で立ち尽くす。


それが、当時よく見られた都会の風景であり、筆者には、常にそんな様子が「長い行列」に付きまとって離れないのだ。


それで、あっさりと「長い行列」から離れた、筆者は専ら、現代の世界的ニュースには滅多に登場しなくても、過去に偉大な歴史のあった国や、日本から遠く位置しているため、どちらかと言えば、日常的に余り馴染みの少ない国々のパビリオンを選んで回った。そして、そんな国の珍しい展示品や民芸品を集中的に見て回ったり、もし、そのパビリオンで、日常滅多にお目に掛かれないような、食事や食品、飲料などが提供されていれば、躊躇無く、それらを試して歩いた。


そんな具体例の一つとして、ギリシャのクレタ島産の、表面は黒い山羊の毛が生え、裏面は白い毛の、2枚の山羊革から製造された、葡萄酒を入れて羊飼い達が持ち歩く水筒を手に入れることが出来た。


今では、そうでも無いだろうが、当時は日本国内で、そんなに簡単には手に入るはずの無かった品物を手に入れることも出来て、それなりに得意だったことを思い出す。


そして今や、2025年の大阪万博招致が再び取り沙汰されているようだが、これについても、上のオリンピックの段落でも述べたように、先の大阪万博とは日本自体も、世界に関しても、時代が明らかに違うことを最初に明確に認識する必要がある。


開催を望む日本自体の経済状況も無論であるが、世界も第1回目の大阪万博の時代とは比較しようも無いくらいグローバル化が進んでいる。世界中の人々の知識や、求める方向や欲望も大きく変化しているに違いない。


従って、万博のテーマも、開催の意義や目的も、単に2匹目の泥鰌を求めるような安易な考え方では、到底成功は望むべくもないであろう。全く新しい視点から、経済的効果などを一層厳しい目で見詰めながら熟考の上、開催の決断をすることが肝要である、と思われる。



筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になってから、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、105歳(2016年)で天寿を全うした母の老々介護を続けた。今は自身も、日々西方浄土を臨みつつ暮らす後期高齢者。https://twitter.com/buraijoh


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