『光る君へ』道長の二女・姸子(きよこ)の生涯、18歳上の三条天皇から寵愛される?皇太后となり「一家三后」が現出

2024年11月25日(月)8時0分 JBpress

今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、倉沢杏菜が演じる道長の二女・藤原姸子を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 


姉・彰子とはあまり会っていなかった?

 道長の二女・藤原姸子は、正暦5年(994)に生まれた。

 父・道長が数えで29歳、黒木華が演じる母・源倫子が31歳の時の子である。

 歴史物語『栄花物語』巻第四「みはてぬゆめ」には、「いとたいらかに女君生まれ給ひぬ」とあり、倫子はまったく苦しむこともなく、姸子を出産したようである。

 姸子の誕生時、同母姉の見上愛が演じる彰子は7歳だった。

 彰子は長保元年(999)、姸子が6歳の時に、塩野瑛久が演じた一条天皇に入内したため、姉妹といっても、二人が一緒に育ったのは僅か5年に過ぎない。

 その後も姉妹が同居したのは、長保2年(1000)に彰子が立后儀のため土御門第に帰ってきていた1ヶ月半と、敦成親王(後の後一条天皇)、敦良親王(後の後朱雀天皇)の出産時にそれぞれ半年余と、合わせて約1年で、二人はそれほど会っていなかったと推定されている(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』所収 服藤早苗「第八章 次女姸子 ◎姉とたたかって」)。


派手やかなのは母親譲り?

 ドラマでは、華やかで贅沢な衣装や道具や宴席を好む姸子であるが、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』や『栄花物語』などにも、そういったエピソードは多く記されている。

 姸子の母・源倫子も53歳の時に、29歳の娘・彰子と同じ青色の唐衣と地摺の裳を纏って後一条天皇の即位式見物に行っていたことが、道長の日記『御堂関白記』長和5年(1016)2月7日条に記されていることなどから、派手やかな女性だったと推察されている。

 姸子は倫子と仲が良かったと考えられており、姸子が華やかで贅沢な物を好むのは、母親に似たのかもしれない(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』所収 服藤早苗「第八章 次女姸子 ◎姉とたたかって」)。


東宮居貞親王(三条天皇)は姸子を寵愛した?

 姸子は寛弘7年(1010)2月20日、木村達成が演じる東宮(皇太子)・居貞親王(後の三条天皇)の許に入侍する。

 姸子は17歳、居貞親王は35歳と、親子ほど年齢が離れていた。

 しかも居貞親王には、すでに朝倉あきが演じる藤原娍子という39歳の妃がおり、姸子と同じ年の阿佐辰美が演じる敦明をはじめ、四男二女の子をなしている。

 ドラマでは、姸子と居貞親王は、あまり睦まじくは描かれていない。

だが、歴史物語『栄花物語』巻第八「はつはな」には、「東宮はたいそうお年を召していらっしゃるので、(姸子のほうが)恥ずかしくももったいなく感じるほど、一通りでない気遣いをなさった。宣耀殿(娍子)をこのうえなく愛してこられたのだが、(姸子は)呆れるほどお若いので、もっぱら我が子の姫君を側に置いたようなお気持ちでいらっしゃった。日が経つにつれ、だんだんと馴れてこられた様子で、それがとりわけ可愛いらしく感じられた。毎夜の御宿直はもちろんのこと、昼間ももっぱら尚侍殿(姸子)のお部屋にばかりにいらっしゃる」と、姸子の若さへの戸惑いと、寵愛が綴られている。

 また居貞親王が、姸子が持参した調度品を片っ端から広げ、「どれもこれも見所あり」と感嘆したことも描かれている。

 天皇や東宮が通ってくるようにするためには、キサキ本人の容姿や教養だけではなく、このように目を惹く調度品も欠かせなかったという(服部早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』)。 


一帝二后へ

 寛弘8年(1011)6月、一条天皇が譲位し、居貞親王が践祚した。三条天皇の誕生である(以後、三条天皇と表記)。

 三条天皇は36歳、姸子は18歳の時のことである。

 皇太子には、彰子が産んだ敦成親王が立った。

 翌長和元年(1012)2月14日、姸子は立后し、中宮となる。

 三条天皇は姸子を中宮としたものの、四男二女をもうけた娍子も立后させたかった。

 同年4月27日、娍子は立后し、皇后となった。

 この一帝二后により、三条天皇と道長の間には深刻な亀裂が入り、関係は悪化しという(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』)。


皇女誕生を道長は喜ばなかった?

 やがて姸子は懐妊し、長和2年(1013)7月6日、禎子内親王を産んだ。

 道長は、産まれたのが皇子でなかったことが不服だったのか、『小右記』長和2年7月7日条によれば、「悦ばざる気色、甚だ露はなり」と不機嫌な様子であったという。姸子はきっと傷ついただろう。

 実資は、「女を産みなされたことにとるものか。これは天が行なったところであり、人事(人間に関する事)は、どうしようもない」と綴っている。

 至ってもっともな意見だ。

 道長は喜ばなかったが、三条天皇は歴史物語『大鏡』第一巻によれば、「この宮(禎子内親王)を、殊の外にかなしうし奉らせ給うて(特別に可愛がっていた)」という。

 また、「渡らせ給ひたるたびには、さるべきものを必ず奉らせ給ふ(禎子内親王が来るたびに、必ず相当な贈り物をしていた)」とある。

 祖父には喜ばれなくても、父には愛されたと信じたい。


皇太后に

 長和5年(1016)正月、三条天皇は皇位を退き、敦成親王が僅か9歳で後一条天皇となった。皇太子には、敦明親王が立った。

 後一条天皇の外祖父・道長は摂政に任じられた。

 翌寛仁元年(1017)5月9日、三条は42歳で崩御した。姸子は24歳で、夫を失った。

 父・三条の死により後ろ盾を失った敦明親王は、同年8月、自ら皇太子を辞退。代わって、後一条天皇の同母弟・敦良親王(のちの後朱雀天皇)が立太子する。

 寛仁2年(1018)3月、姸子の同母妹・佐月絵美が演じる藤原威子が後一条天皇に入内し、10月に立后。中宮となる。

 姸子は皇太后に転じ、太皇太后である彰子と合わせ、娘三人が后となる「一家三后」が現出し、道長の栄華は頂点を極めた。

 皇太后となった姸子は、娘・禎子内親王と暮らしたという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』所収 服藤早苗「第八章 次女姸子 ◎姉とたたかって」)。


道長の嘆き

 禎子内親王は万寿4年(1027)3月に、皇太子・敦良親王に入侍した。

 敦良親王は長元9年(1036)に践祚して後朱雀天皇となり、禎子内親王は後に後三条天皇となる尊仁親王を産むが、姸子はそれらを見届けることはできなかった。

『小右記』万寿4年4月14日条によれば、姸子は「食事も摂られず、枯稿(枯れいたむ)は特に甚だしい」という状態になり、9月14日に34歳でこの世を去ったからだ。

『栄花物語』巻第二十九「たまのかざり」には、道長が息がかすかになっていく姸子を見て、「年老いた父母を残して、どちらへ行っておしまいなのか。私も御供につれていってくだされ」と嘆く姿が描かれている。

 ドラマの姸子は、自分を政治の道具に使い、皇女の誕生を喜ばなかった道長に少し冷ややかであるが、最期に道長の愛情を感じることができるだろうか。

筆者:鷹橋 忍

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