地図記号から見えてくる、電気の歴史。電灯の普及により、消えた記号とは
2024年12月1日(日)12時30分 婦人公論.jp
(写真提供:Photo AC)
地図を読む上で欠かせない、「地図記号」。2019年には「自然災害伝承碑」の記号が追加されるなど、社会の変化に応じて増減しているようです。半世紀をかけて古今東西の地図や時刻表、旅行ガイドブックなどを集めてきた「地図バカ」こと地図研究家の今尾恵介さんいわく、「地図というものは端的に表現するなら『この世を記号化したもの』だ」とのこと。今尾さんいわく、「地図記号に発電所の記号が登場したのは『明治33年図式』であった」そうで——。
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電気の歴史を反映する送電線
京都駅の烏丸(からすま)口に降り立って振り返れば、景観論争の末に出現した地上16階建ての巨大な駅ビルがそびえている。
日本一の長さを誇る0番ホーム(旧1番ホーム)に接するだけあって横幅は470メートル、高さは60メートルに及ぶ。駅前の標高は29メートルなので最上部は89メートルということになる。
ところで10キロほど離れた琵琶湖の水面の標高は85メートルだ。
見上げた駅ビルのおそらく最上階の床近くに日本一の湖が水を湛えているとは想像しにくいが、その大きな落差に昔からピンとくるのが電源開発にかかわる人々であった。彼らは急流や高所の湖を見ると無性にタービンを回したくなる。
明治維新の後で繁栄を東京に持っていかれる危機感をバネに立ち上げられた一大プロジェクトが、琵琶湖の水を京都へ引く琵琶湖疏水(そすい)であるが、緩い勾配で南禅寺の近くまで引いてきたその水の一部を落としてタービンを回す。
これを実現させたのが本邦初の商業用水力発電所の蹴上(けあげ)発電所で、その電力で京都電気鉄道(後に京都市電に併合)が日本で初めて電車の営業運転を始めた。
この発電所が運転を開始したのは明治24年(1891)だが、地図記号に発電所の記号が登場したのは「明治33年図式」であった。
<『地図記号のひみつ』より>
もっとも実際にはひとつ前の「明治28年図式」の地形図から同じ記号が用いられており、「発電所」という新時代の装置を、図式改訂を待たずに記号として速やかに追加すべきだと陸地測量部(国土地理院の前身)内で判断したのだろう。
歯車由来の「工場」に似たこの記号は、現在に至るまで珍しくモデルチェンジされていない。細かく見れば現在の記号は左右の「手」のような部分の縦線が戦前よりずっと長くなっているけれど。
発電所の記号の由来
ところで、この記号の由来は何だろうか。『地図記号のうつりかわり』などには「歯車と電鍵」とあるが、電鍵といえばモールス信号を送るときに手で打つ器具だから発電所には場違いだ。
「明治42年図式」の解説書『地形図之読方』で調べてみると、「歯輪ニ電鑰(でんやく)ヲ付シタルモノ」とある。電鑰など字さえ見たことがなかったが、漢和辞典によれば「鑰」は「かぎ」や「じょう」の意という。
勝手な想像だが、水力発電に使われるフランシス水車を横から見たとして、羽根車(ランナー)を歯車の図形、その外側の案内羽根(ガイドベーン)をこのカギ形で表しているのかもしれない。
なおこの記号は明治大正期の図式に「発電所」とあるが、運用としては変電所も含まれている。両者が区別されたのは「昭和30年図式」と「昭和35年加除式」だけだ。
『地図記号のひみつ』(著:今尾恵介/中央公論新社)
京都電気鉄道は当初、琵琶湖疏水由来の電気を使う究極の「エコ電車」としてスタートしたが、疏水の水藻を刈る作業のため発電所の運転を月に2日ほど止めたので、これに合わせて電車も運休となった。
なんとも牧歌的な時代であるが、路線も延長されて乗客数が増えると間に合わず、明治32年には石炭火力発電所を街外れに設置した。
初めて高圧長距離送電に成功したのは、東京電燈(現東京電力の前身のひとつ)が山梨県北都留(きたつる)郡広里村(現大月市)に設置した駒橋発電所である。
<『地図記号のひみつ』より>
現在でも中央自動車道や中央本線の車窓から見えるこの発電所は明治40年に竣工、東京の早稲田配電所(変電所)まで76キロに及ぶ送電が行われた。
ちなみに早稲田配電所は周囲が田んぼであった頃の神田川畔に設けられ、大隈重信邸(現大隈庭園など)のすぐ近くにあった。現在は完全に市街化したが、今でも東京電力早稲田変電所として稼働している。
「送電線」の記号
長距離送電の際には送電ロスを最小化するため高圧にして送るのだが、このため普通の電線とは異なる高い鉄塔に電線を張った「送電線」が各地に出現した。従来の電線とは異なるので、それ専用の新しい記号も明治42年に登場している。
「電線(特別高圧)」という記号で、細線の両側に小さい黒丸をペアで配するものだ。これは「昭和30年図式」以来の「送電線」に引き継がれ、現在では点の間隔を6ミリと決めている。
ただし存在する送電線を全部描くわけではなく、「平成14年図式」では「20kV以上の高圧電流を送電するものに適用し、特に目標として価値のあるもの」に限っている。
さらに「鉄道、道路と平行し、相互の間隔が20m未満の場合は、重要なものを除き省略する」とし、その他に地中の送電線や20メートル未満の間隔で平行するものは一方を省略するなど規定がある。
送電線のもうひとつの特徴は、道路と交差する部分で道路を必ず上に描くようになっていることで、まるで半地下の電線のような違和感を覚えるかもしれない。
もうひとつ、送電線を支える鉄塔も原則として描かれない。「高塔」の記号の規定でも「送電線鉄塔を除く」とわざわざ記している。
要するに対象が多過ぎるためだが、実際にどこに鉄塔があるかについては、まずは送電線が屈曲している部分には必ずあるし、尾根を越えている部分にもある可能性が高い。
これは両側の土地の高さを見比べれば判断できるだろう。昨今の「地理院地図」(インターネット)なら空中写真モードも簡単に閲覧できるので、鉄塔があるかどうかはそれですぐ判明する。
「電信線」の記号
さて、昔の話に戻ろう。現在は2万ボルト以上に限定される「送電線」だけになった電線記号も、かつてはもうひとつあった。「明治24年図式」で定められた「電信線」である。
東京—横浜間に電信が開通したのは、日本初の鉄道が開業する3年前の明治2年と早い。
これに対して「電灯」の方は遅れた。かのエジソンが実用的な白熱電球を開発したのが明治12年なのだから無理もない。
その「メンローパークの魔術師」が点灯デモンストレーションで大喝采を浴びてから3年後の同15年、銀座にアーク灯が登場した。これが日本国内における電灯の嚆矢で、家庭配電が行われたのは同20年からである。
電信線の記号は細線に串団子のように黒丸を一定間隔で連ねたもので、「明治33年図式」では同じ記号が「電線」に変わる。
ちょうど西暦1900年にあたるこの年に電灯照明が20万灯を記録し、普及が本格化したのと軌を一にしたものだろう。従来の電信線と新たに加わった電力線の両者を含めて図上に表記したと思われる。
「明治42年図式」では前述のような高圧送電線が登場したことにより、黒丸で細線をはさむタイプの「電線(特別高圧)」と従前の串団子の「電線(普通)」に分類されるようになった。
電灯が普及したあとの地図
その後、戦前の代表的図式である「大正6年図式」では「電線(高圧)」「電線(普通)」と2分類したのだが、同じ図式が引き続き適用されているはずの昭和10年(1935)に刊行された部内資料『地形図図式詳解』(陸地測量部)には「電線(高圧)」と「電線(通信線)」のように分類が改訂されている。
一般家庭に電灯がかなり普及したこの段階では、街中に張り巡らされたものを律儀に描く意味がなくなったからだろう。
これを反映したかのような記述が同書にある。「山間僻地等ニ稀ニ存スル電灯線ノ稍(やや)長ク連絡セルモノノ如キハ之ヲ描クコトアリ」というくだりだが、この頃にはすでに市街地や人里に高密度で張られた普通電線は対象外となっていたはずだ。
戦後の舗装道路の記号がほどなく廃止されたのと同様、対象があまりに増えると煩雑になり過ぎるし、そもそも記号化する意味がなくなる。
なお関西地区で明治17年から整備された「仮製2万分1地形図」の図式は「電線」の表記であるが、時代から判断して電信線らしい。
電信開通時、「ハリガネがいち早く手紙を届けてくれると聞いて、電線に手紙をくくり付けた」という都市伝説もあるが、それから150年でずいぶんと世の中は変わったものである。
※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。