兵糧攻めや水攻めだけじゃない、豊臣秀吉を天下人たらしめた軍事的資質とは
2023年12月2日(土)6時0分 JBpress
(歴史ライター:西股 総生)
◉豊臣政権はなぜ急速に解体したのか?(前編)
山崎と賤ヶ岳、二つの戦例からわかること
(前稿からつづく)秀吉の軍事的資質について、もう少し掘り下げてみよう。
秀吉が天下人への道を歩むきっかけとなった戦いとして、山崎合戦と賤ヶ岳合戦がある。中国大返しから一気に明智光秀軍を撃破した山崎合戦は、面白いことに夕刻になって戦端が開かれている。これは、中世・戦国時代の合戦ではかなり異例だ。
当時は、夜のうちに移動と布陣を終えて、早朝に戦端を開くのが普通であった。自軍の布陣や行動を秘匿しやすいし、戦闘行動に適した昼間の時間をできるだけ長く使うことができるからだ。にもかかわらず山崎合戦で、秀吉が夕刻の接敵からそのまま戦端を開いたのは、スピードと勢いが勝利のカギだと踏んだからだろう。
中国大返しによって畿内に戻った秀吉は、摂津にいた織田信孝・丹羽長秀らと合流し、高山右近・中川清秀といった畿内の小大名を糾合している。基本は統制のとれない寄合所帯なのである。このとき、信長の横死という想定外の事態を前に、多くの者はどう行動すべきか判断に迷い、情勢を見極めようとしていた。
そんな状況で、陣を固めたまま夜を迎えたら、闇の中で密使やら密書やらが横行するのは間違いない。だとしたら、「光秀を討て!」と盛り上がった勢いのまま押し切ってしまう方が得策、と秀吉は判断したのだ。このやり方なら、参陣諸将もためらったり寝返ったりする暇がないからだ。
次に賤ヶ岳合戦の場合は、秀吉軍・柴田軍が近江・越前国境の山岳地帯に展開し、双方が陣地を固めて戦況が膠着した。この間に、柴田勝家に同調する織田信孝や滝川一益らが、美濃・伊勢方面で策動したため、秀吉は賤ヶ岳戦線をいったん弟の秀長に任せ、手勢を率いて美濃方面で作戦していた。
一方、柴田軍では、佐久間盛政が戦線突破を試みて秀吉方の中川清秀陣を陥れた(清秀は戦死)。これにより、秀吉軍は戦線崩壊の危機に瀕することとなったが、報せを聞いた秀吉はただちに手勢を率いて賤ヶ岳戦線に駆けつけ、攻勢に出た。秀吉が短時間で戻ってくるとは予想していなかった柴田側は総崩れとなり、勝敗は一気に決した。
山崎・賤ヶ岳という二つの戦例からわかることは、秀吉の判断と行動の迅速さである。しかも、ここぞという勝負所(軍事用語でいう「決勝点」)に、リスクを怖れずに一気に主力軍を注ぎ込んでいる。
そもそも「中国大返し」という行動自体が、迅速な判断と行動の賜物であり、リスクを怖れずに主力軍を注ぎ込んだ結果なのである。しかも中国大返しは、備中高松城の水攻めから連続する軍事行動なのだ。兵力の損失を嫌って長丁場の包囲戦を選ぶような指揮官に、このような判断ができるはずがない。
ケースバイケースで適確な判断を下し、すばやく勝負所を見極めたら、リスクを怖れずに持てるリソースを一気に投入する。それこそが秀吉の軍事的才能であり、短期間での全国統一を実現した推進力でもあった。
ただし、そうして覇業を達成したゆえに、豊臣政権はきわけめて独裁的な権力とならざるをえなかった。秀吉の迅速な判断が、そのまま政策になるからだ。豊臣政権は、図体は大きくとも体質的には秀吉の個人商店のままだったわけである。
となれば、秀吉が死んだ途端に権力中枢が空洞化するのは当然であった。しかも後継体制が不安定となれば、政権が迷走を始めるのは避けられなかった。要するに、豊臣政権成立の原動力となった秀吉の天才性は、そのまま政権のアキレス腱だったわけである。
【参考図書】戦国時代の実相についてより詳しく知りたい方は、拙著『戦国の軍隊』(角川ソフィア文庫)をご一読下さい。最終章で豊臣政権についての筆者の評価も具体的に述べています。
筆者:西股 総生