ハーブ研究家・ベニシアさんが愛した京都・大原の庭を訪ねて。築100年を超える古民家を自分たちで改装。7つの庭を1つずつ完成させて
2024年12月5日(木)12時30分 婦人公論.jp
2019年、目が見えにくくなっていたベニシアさんだが庭に出ると笑顔に(写真提供:梶山正)
山里の古民家で美しい花々やハーブを育て、手作り暮らしを楽しんでいたベニシア・スタンリー・スミスさんが、2023年6月に死去しました。梶山正さんは妻の介護をとおし、学んだことがあったと話します(取材・文:野田敦子 写真提供:梶山正)
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「私が死ぬ家を見つけた! 」
比叡山の山裾に広がる京都・大原。ベニシアさんと梶山正さんの家は、里山の自然にしっとりと溶け込むように立っていた。窓を開け放った気持ちのいい和室へと迎え入れてくれた梶山さんの向こうには、テレビで見覚えのある風情豊かな違い棚と床の間。
今、それらの空間を埋め尽くしているのは、梶山さんが撮影した大小さまざまなベニシアさんの写真だ。どこからか、あの落ち着いた声が聞こえてきそうな気配が部屋全体を満たしている。
「息子の悠仁(ゆうじん)はベニシアが亡くなる前、よく枕元で『ママ、アイラブユー』と言ってました。僕は、そういうのが苦手で(笑)。『おはよう』『何か飲みたい?』なんて普通の会話ばかり。今になって毎日、写真に向かって伝えていますよ。やっぱり生きているときに言わんとあかんね」
ベニシアさんは、昨年の夏至の朝、静かに息を引き取った。初めてこの家に足を踏み入れてから27年。「ついに私が死ぬ家を見つけた!」と宣言した自分との約束を守るかのようだった。
京都・大原にあるベニシアさんと梶山正さんの家
ゼラニウムやナスタチウムなど、西日に映える黄色やオレンジ色の花が咲く「スパニッシュ・ガーデン」
「当時、100軒ぐらいは見てまわったかな。僕は早く決めたかったけど、ベニシアは妥協しなかった。彼女は40代になっていたし、一生の住まいを見つけたいと考えていたんでしょうね。今思えば、ベニシアがこだわってくれて本当によかった。ここでいろんな仕事をし、思い出が作れましたから」。
頭金ゼロ、全額住宅ローンで手に入れた築100年を超える古民家は、傷みが気になった。
「お金がなかったから、ほとんど自分たちで改装しました。屋根や床もボロボロだったし、庭もね、雨が降ると水浸しになるから排水用パイプを何本も埋めて。いやあ、全部が面白かったですね」。
梶山さんが庭の基礎土木工事を終えると、ベニシアさんは待ってましたとばかりに「これから私は、ハーブとガーデニングを趣味にします」と宣言し、庭造りを開始。家をぐるりと囲む約40坪の庭をテーマごとに7つの区画に分け、1年ごとに1つずつ完成させていった。
「狭いんだから、細かく分けなくていいのにね(笑)。でも、ああやって楽しんでいたんだろうな。今、僕がするのは草取り程度。雑草だと思って抜こうとすると、ベニシアが植えたハーブだったりするの」。
縁側の先に広がる庭はかつての趣を残しつつも、そこかしこに主のいない寂しさを漂わせている。
ガーデニングコンテストで受賞
ベニシアさんは、1950年、イギリス貴族の家に生まれた。上流社会になじめず、19歳でインドへ。その翌年に来日し、日本人男性と結婚、一男二女をもうける。
英会話スクールをオープンし京都に腰を据えるが、夫婦関係はうまくいかず離婚。シングルマザーとして奮闘する日々を過ごしていた。
一方、9歳年下の梶山さんは、ネパールやインドを放浪後、84年、京都で二人の出会いの場となるインドカレー店を開いた。
「ベニシアは店の常連だったけど、親しくなったのは、僕が前妻と別れ、山岳カメラマンの仕事を始めようとしていた91年ごろ。当時からベニシアは、言葉に説得力のある魅力的な人でした」
92年、二人は南アルプス・仙丈ヶ岳山頂で結婚式を挙げる。翌年、悠仁君が誕生するが、「ベニシアの2人の女の子たちは多感な思春期で、僕は歓迎されなかったんです」。
子どもたちが成長し、独立した後も苦難は続いた。「23歳だった次女のジュリーが、出産後の精神的ショックから統合失調症を発症してしまって。どう接していいかわからず悩みましたね」。
ハーブを使った料理や、トラディショナル・フルーツケーキなどイギリス式のクリスマス料理作りを楽しんだ。
一方でベニシアさんは少しずつ注目され始める。きっかけは、2002年に「NHK 私のアイデアガーデニングコンテスト」で特別賞を受賞したことだった。
「番組の生中継を見ていたら、『日本に昔からある植物を大事にしたい。村や町の風土、環境、歴史や文化に合わせた庭を造ることが大切じゃないか』と堂々と話していて。僕の心配をよそに、彼女は庭についての考えを語り、そこにいた誰よりも審査員の心をつかみました」。
その後、初の著書『ベニシアのハーブ便り』がベストセラーになり、エッセイ集やDVDなどが相次いで発売された。あまり知られていないことだが、ベニシアさんの書く英文を翻訳し、自然な日本語に直していたのは梶山さんだった。
しかし、「あちこちで『奥さんは有名人なのに、ダンナはただの人。たまに写真を撮ってるみたいだけど』なんて軽く扱われて(笑)。
面白くないもんだから、ベニシアに『あなたはイギリス貴族だから、みんなに慕われる。日本人だったら、仕事は来ないよ』なんて嫌みを言う始末。ベニシアは、『そんなことない! 私、頑張ってるんだから!』と本気で怒っていました。
うん、僕のひがみですよね。ベニシアは、ハーブ研究家として人一倍努力していたし、人々を引きつける力がありました。だけど、当時の僕は素直になれなかったんだなあ」。
さまざまな葛藤から逃れるように、梶山さんは山登りにのめり込む。「挙句の果てに、好きな人ができて家を飛び出しました。ベニシアは母親が4度離婚し、『いつ捨てられるかわからない』という不安な子ども時代を過ごしてきた人です。その生い立ちを知っているのに僕は裏切った。あのときの苦しみが、後の病気につながったのかもしれない」。
<後編につづく>
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