第18回 月とオーロラとウヤミリック——角幡唯介「私は太陽を見た」

12月8日(金)17時0分 文春オンライン




 夕食の間も、寝袋に入ってからも、私はどこで何の獲物をねらうべきか延々と思案し、行き先を迷いつづけた。


 残りの食料が限られている以上、狩りをする期間のリミットを決めなければならない。獲物がとれず村にもどることになれば、手持ちの食料で帰還しなければならない。改めて調べると1カ月弱の食料がのこっていた。


 それに加えて犬の肉があった。


デッドラインから狩りに許された時間を逆算する。


 英国隊のデポが食い荒されたことが分かったとき、私は絶対に犬を死なせないと誓ったが、その一方で、もし狩りに失敗して獲物がとれなかった場合は死んだ犬の肉を食って村にもどるしかないな、ということも冷徹に見据えていた。獲物がとれなければ犬は必然的に途中で力尽きるだろうから、その肉を食わない手はなく、その時点で私の食糧は自動的に増えることになる。


 犬の普段の体重は推定約35キロ、餓死して20キロになるとしても臓物を含めて10キロは食えるだろうから、10日分の食料として見込める。狩りに失敗して犬が死んだ場合、その死体もふくめて私の残余食料は1カ月から40日、そうすると、2月10日から20日の間に村にもどるようにすれば最悪、自分だけは生還できる。それにこの時期ならもう十分明るいので氷河の入口も判別できる。ひとまずこのあたりをデッドラインにして狩りに許された期間を逆算した。


 アウンナットから村にもどるには往路と同様、ツンドラと氷床の二次元平面空間を越えなければならない。2月になればもう明るいだろうから往路のように迷う心配は少ないものの、厳冬期の氷床は一週間連続でブリザードが吹き荒れることもあるという話も聞くので、十分な余裕をもって臨まなければ危険だ。私はアウンナットから村まで予備日含めて2週間が必要と考えた。となると2月15日に村に到着すると仮定した場合、2月2日にはアウンナットの小屋を出発しなければならないことになる。さらにイヌアフィシュアクからアウンナットまでは4、5日かかるので、遅くとも1月27日前後にはイヌアフィシュアクを出なければならない。ということは今日は1月10日なので、少なくとも2週間は狩りをすることが許される。



犬の餌を確保するため、狩りにあてられる時間は2週間 ©角幡唯介


自分の選択を後悔したくなかった。


 常識的に考えればアウンナットに引きかえすべきだというのはわかっていた。何しろ食料が十分ではないのだ。アウンナットにもどればそれだけ村が近づくわけで、肉体的にも精神的にも一番安全な選択である。しかし私はアウンナットにはもどらず、あえて北に突っこむことにした。村という人間界から少しでも離れてより深い極夜の闇の奥に突っこむ。そうすることで何か旅の活路が開けてくるかもしれない。それにもし獲物がとれなくても、北に突っこむことで今後、自分の選択を後悔しないですむはずだ。


 地図を見て北方面に麝香牛が狙えそうな場所がないか検討したところ、約50キロ北に進んだところにダラス湾というところがあった。その内陸に湿地が広がっており、いかにも麝香牛が餌場にしていそうな土地に思えた。しかもその湿地は南側で例の麝香牛牧場ことセプテンバー湖とつながっており、おそらく牛たちは湖とこの湿地帯をたえず移動して餌を食っているにちがいない。しかもダラス湾にはもう一つ有望な点があった。麝香牛は海岸より内陸部にいるケースが多いが、グリーンランドの地形は海岸に断崖がつらなり、重たい橇を引いて内陸まで進入できる場所は少ない。しかしダラス湾は地図で見るかぎり非常にのっぺりとした地形が奥までつづき、容易に内陸部にはいり込めそうに見えたのだ。


 とりあえず私は方針を決めた。まずはダラス湾を目指して北上し、その途中で良さそうな割れ目があれば試しに海豹の呼吸口を探してみる。海豹猟がうまくいきそうならそれに専念し、難しそうならダラス湾に直進し、麝香牛にねらいをかえる。



穴のまわりで海豹がくるのを待つ。


 翌日も快晴で月が皓々と照っていた。午後9時半に出発してデポ跡地から北にある顕著な岬をめざした。氷点下35度の寒さだが、身体は寒さに完全に適応しており、橇を引いていると汗がにじんでくる。この極夜探検では連日、氷点下40度から50度台の寒さを覚悟して装備もそれ相応の準備をしてきたが、正直言って寒さに関しては恐れていたほどではなかった。



今はちょうど満月。海氷の状態も非常にいい ©角幡唯介


 最初の岬に近づくと幅40センチほどの新しい割れ目がイヌアフィシュアクの半島の先端にむかってのびていた。岬の周辺は潮の動きのひずみで海氷に割れ目ができやすく、海豹はこうした割れ目に呼吸口をつくることが多い。私は橇をその場に残し、ライフルや海豹猟用の鉤棒などを肩にぶら下げて割れ目に沿って穴をさがしはじめた。割れ目は潮の圧力でもりあがった氷丘や乱氷の間を縫うように続いていて、歩くだけでも難儀だった。500メートルほど探したところで、それっぽく見えなくもない穴が見つかった。通常、呼吸口のまわりは海豹の吐息が凍って小高くもりあがるが、その穴のまわりはそうした吐息のもりあがりはなく、わずかにもこっとしているだけだった。だが、それも呼吸口がまだ新しいからかもしれない。一応、私は橇に一度もどって穴の近くまで引き返し、防寒着に身をつつみ、ライフルをかまえて穴の脇で海豹が呼吸しにくるのを待った。


海豹はここにいないのか。


 風もなく音もなく、月と闇と沈黙だけがそこにあった。1時間ほどじっとその場で待ったが、何の動きもなかった。寒さに慣れたとはいえ動きをとめると寒気が体の内側に染みこんでくる。


 呼吸口かどうかもわからない穴で待つのも非効率的なので、ひとまず橇を引き移動を再開した。また別の割れ目が見つかったので、同じように500メートルほど探したが、やはり呼吸穴は見つからなかった。そんなことをしているうちにもういい時間となり、私は先ほどの呼吸口かもしれない穴にもどり、鉤を三又にした簡単な罠を穴に垂らして近くで幕営することにした。


 うまいこと罠に海豹がかかればいいが、たぶん無理だろう。というか、ここはどう考えても呼吸口ではない。


 1日やってみて海豹猟の非効率性について痛感した。そもそも人力で橇を引きながら呼吸穴を探すこと自体、無理がある。イヌイットが旅の途中で呼吸口を探すときは犬橇で何キロも走って探すらしいが、人力橇で同じことをやろうとしたら乱氷のなかで橇を引いてまわらねばならず体力の消耗が激しいうえ、移動できる距離もたかが知れている。したがって橇は後に残して探さなければならないが、そうすると残した橇を白熊に襲われるのが心配だった。海豹の呼吸口があれば、海豹を餌にする白熊がいてもおかしくない。白熊に橇が襲われたら私に残されるのは死だけなので、怖くて橇からあまり遠くに離れられないのだ。それにアウンナットに来てからというもの白熊の気配がほとんど感じられないのも気になった。一度、古い足跡を見かけたが、それだけである。もしかしたら海豹は別の海域に移動しており、白熊もそれを追っているので気配がないのかもしれない。そう考えると海豹を狙うのはあまり賢い選択肢ではないように思えてきた。



「絶対に犬は死なせない」


 私は三度、計画を変更し、やはり麝香牛をねらうことにした。ダラス湾まで45キロほど。2日でたどり着けば1週間近くは月明かりを期待できる。麝香牛がダメでも兎の2、3羽はとれるはずだと、そう考えた。


 翌日テントを撤収すると犬が待ちきれないとばかりに私の糞をがっついた。飢えた犬がバフバフとじつに旨そうな音を立てながら餌を食うのを見ていると、それがたとえ人糞でも旨そうに思えてくるから不思議だ。これまで行動日には村で買ったホールトマトの空き缶で3缶か4缶分のドッグフードを与えていたが、一昨日からは3缶から2缶に減らしたので、かなり腹が減っているのだろう。


 朝食が終わると犬は離れたところに行き、遠くのほうを見ながら、いかにも気持ちよさげな恍惚とした顔で脱糞した。野生に近い犬だがエチケットだけは私よりもよほどわきまえていた。


「さあ、ウヤミリック行くぞ。お前が死んだら、もうこの旅も終わりだからな」


 そう声をかけると、自分の言葉に涙腺が刺激されて思わず涙がこぼれそうになった。そして絶対に犬を死なせないという決意が高まり、ふたたびドーパミンの噴出量が増した。どぴゃーと出てきた。とにかく月の明るいうちに麝香牛を仕留めなければならなかった。


 脳内物質の助けもありダラス湾にむけて私と犬は飛ばしに飛ばした。歩いている最中も白熊がいないか目を凝らした。白熊が1頭、接近してくれさえすれば一気に問題は解決する。犬も激しく運動して橇を引いた。ラッセル岬の周辺はひどい乱氷で手間取ったが、少し沖に離れると真っ平らな新氷帯となりペースは一気にあがった。


 駆けるようにして橇を引く私と犬とのまわりには、壮絶なまでに美しい闇と氷の世界が広がっていた。


 左手には茫漠とした氷の絨毯が広がり、奥のほうで闇空間にすいこまれて天空と一体化していた。右手側には高さ200メートルの垂直の断崖が延々とうちつらなり、その上に満月が母なる神のように照り輝き、慈しみに満ちた光で世界をやわらかくつつみこんでいた。太母のような月に見つめられた闇世界は、イコール子宮内部の暗闇と同じだった。そこに時折、エクトプラズムのごとき白緑色の靄のような気体が、断崖の上で、この前死んだ祖母の霊気みたいにゆらゆらと立ちのぼった。オーロラである。オーロラは太陽風とよばれるプラズマが地球の磁場にさまたげられることで発生する現象で、北緯67度近辺でもっともきれいに発光するので、今回の旅のエリアは緯度的に高すぎるのだが、それでも一応発生だけはするらしく、雲かオーロラかわからないけど動きがおかしいからたぶんオーロラだな、みたいな怪しげな感じで弱々しく発光していた。


 月の光と、それに照らされて闇夜に白くぼわーっと浮かびあがっている幻想的な光景のなかを歩いていると、完全に宇宙空間を探検しているような感覚に陥った。





(角幡 唯介)

文春オンライン

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