『更級日記』の作者、菅原孝標女はどんな人?書名に込められた意味、『源氏物語』への愛と紫式部の娘との意外な関係
2024年12月9日(月)8時0分 JBpress
今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、吉柳咲良が演じる菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ/ドラマでは「ちぐさ」)を取り上げたい。『更級日記』の作者として知られる菅原孝標女(実名は不明)は、どのような人生を送ったのだろうか。
文=鷹橋 忍
『更級日記』とは
『更級日記』は、菅原孝標女の少女時代にはじまり、夫を失くしてから1〜2年後までの約40年の人生を、回想して綴った日記文学である。
他にも、『夜半の寝覚』、『浜松中納言物語』などの物語も、菅原孝標女の作品だと考えられている。
菅原孝標女は、寛弘5年(1008)に生まれた。
見上愛が演じる彰子が産んだ敦成親王(後の後一条天皇)と同じ年の生まれである。
紫式部の生年には諸説あるが、仮に天延元年(973)説で計算すると、菅原孝標女は紫式部より、35歳年下となる。
父・孝標は、菅原道真の嫡流で五世の末裔だといわれる。
菅原家は代々、大学頭や文章博士を歴任する、学問の家柄である。
ところが孝標は、長保2年(1000)に蔵人に補せられたが、受領として上総介、常陸介などを歴任するにとどまった。
紫式部の娘との、意外な関係
菅原孝標女の実母・藤原倫寧の娘は、『蜻蛉日記』の作者である、財前直見が演じた道綱母(ドラマでは藤原寧子)の異母妹だ。
つまり菅原孝標女にとって、道綱母は「母方の伯母」にあたる。
だが、菅原孝標女は道綱母より40歳くらい年下と推定されており、道綱母の存命中に菅原孝標女が直接的に影響を受けることはほぼなかったと考えられている(関根慶子『新版 更級日記 全訳注』)。
菅原孝標女には実母の他に、「上総大輔」と呼ばれた歌人の継母がいた。
継母の叔父・高階成章の妻は、南沙良が演じる紫式部の娘・大弐三位(藤原賢子)である。
『源氏物語』の熱烈な愛読者としても知られる菅原孝標女だが、『源氏物語』をはじめ、彼女が物語を愛するようになったのは、この継母の影響だといわれる。
『源氏物語』への愛
菅原孝標女は寛仁元年(1017)、数えで10歳の時、上総介となった父・孝標の任国である上総国(千葉県中央部)に、父、継母、姉らと共に下向した。
『更級日記』によれば、菅原孝標女は上総国で、継母や姉が色々な物語や光源氏などについて話すのを聞いているうちに、「都にある物語を読んでみたい」と強く思うようになったという。
寛仁4年(1020)、父・孝標の任期が終わり、菅原孝標女たちは12月に帰京した。
同年、継母は孝標との仲が上手くいかなくなり、家を去っている。
治安元年(1021)、『源氏物語』50余巻をはじめ大量の物語を、「おば」なる人から貰い、菅原孝標女は夢中で読みふけった。
『源氏物語』を誰にも邪魔されず、几帳のなかでうつ伏すようにして、一冊一冊取り出して読むのは、「后の位も何にかはせむ(后の位など比べ物にもならない)」ほどに楽しかったという。
その頃の菅原孝標女は、光源氏に愛された夕顔や、薫大将に愛された浮舟に心惹かれ、年頃になれば二人のようになれると信じていた。
また、読経など仏道の勤めを心掛けることもなく、「大変に身分が高く、容姿も物語に出てくる光源氏のような男性を、年に一回でもいいから通って貰えるようにし、私は浮舟の女君のように、山里にひっそりと隠し住まわされて、花、紅葉、月、雪を眺めながら、心細い思いで暮らし、折節ごとに素晴らしい手紙などが届けられるのを、待ち受けて拝見するようになりたい」などと思い続けていたと、『更級日記』に綴られている。
出仕と結婚
菅原孝標女が物語にのめり込んでいる間にも、治安3年(1023)には火事で家が焼けたり、万寿元年(1024)5月には姉が出産後、間もなく亡くなったりと、悲しい事件が起きた。姉の遺児二人を、菅原孝標女は養育することになる。
長元5年(1032)2月、菅原孝標女が25歳の時、父・孝標が常陸介などに任じられ、単身で常陸に下向。長元9年(1036)秋、帰京した。
帰京後、すっかり老いた孝標は隠居し、さらに実母も出家してしまう。
菅原孝標女は、家のことや姉の遺児の養育などを担い、家を支える日々を送る。
そんな中、宮仕えを人から勧められた。
両親は乗り気ではなかったが、長暦3年(1039)、32歳の冬頃、菅原孝標女は祐子内親王家に出仕することとなった。
祐子内親王は、後朱雀天皇(彰子と一条天皇の皇子)の皇女で、母は藤原嫄子(片岡千之助が演じた敦康親王の娘で、渡邊圭祐が演じる藤原頼通の養女)である。
ところが、出仕してまもなく、両親の勧めにより退出し、翌長久元年(1040)頃、但馬守・橘為義の四男である、39歳の橘俊通と結婚したとみられている。
二人の間には、仲俊という男子の他に、女子が一人、誕生したようである(宮崎荘平『平安女流日記文学の研究 続編』)。
『更級日記』によれば、菅原孝標女はその後、雑事に忙殺されて物語のことも忘れ、物詣をしてこなかったことを悔やみ、光源氏のような男性は存在しないのに、なんと浮ついていたのかと、自省したという。
淡い恋
長久2年(1041)には、夫・俊通が下野守となったが、菅原孝標女は赴任先に同行しなかった。
姉の遺児が祐子内親王家に出仕したのに伴い、菅原孝標女も時折、祐子内親王家に参上していたとされる。
この頃、菅原孝標女は3歳年上の公卿・源資通と出会ったとみられている。
資通は歌人で蹴鞠や音楽にも長けた、『源氏物語』に登場しそうな才人だ。二人は歌の贈答などで交流が深まったが、淡い恋心のまま、終わったとされる。
夫の死と後悔
夫・俊通が下野守の任を終えて帰京すると、菅原孝標女は、夫や子どもたちの栄達を願い、石山、初瀬、鞍馬などでの物詣に励んだ。
天喜5年(1057)50歳の時に、夫・俊通は信濃守に任ぜられ、8月下旬に息子の仲俊ともに赴任。菅原孝標女は同行しなかった。
俊通は翌康平元年(1057)4月に一時帰京したが、9月に発病し、10月5日にこの世を去った。菅原孝標女、50歳の時のことである。
頼みの夫を失った菅原孝標女は、深く嘆き悲しみ、「物語に熱中し、若い頃から仏教修行に励まなかったからだ」などと悔いた。
菅原孝標女は天喜3年(1055)10月13日の夜に、阿弥陀仏から「後に、迎えに来よう」と告げられる夢を見ているが、この夢ばかりを後の世の頼みとしていると、『更科日記』に綴っている。
書名に込められた思いは?
『更科日記』によれば、菅原孝標女は、甥たちなどとは同じ家で朝夕、顔を合わせていたが、夫の死という身にしみて悲しい出来事の後は、それぞれ別々に住むようになり、訪れることはめったになくなった。
ところが、ひどく暗い晩に、兄弟の中で六番目にあたる甥が訪ねてきたのだ。
珍しいと感じた菅原孝標女は、思わず、以下の歌が口に出た。
月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
(月も出ない真っ暗な姨捨山のように、夫と死別して闇にまどう私の所に、どうしてこんな暗い中、訪ねてきてくれたのでしょう)
姨捨山は、亡き夫の任地であった信濃国の更科郡にあり、『更科日記』のタイトルは、この歌から付けられたといわれる(川村裕子『更級日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』)。
『更級日記』の書名には、亡き夫を偲ぶ心と、変わらぬ愛が込められているのかもしれない。
筆者:鷹橋 忍