養老孟司 食と安全を備えた<田舎>が日本から消えたワケ。「昭和30年代から全国の町に<銀座>が出来て…」
2024年12月11日(水)6時30分 婦人公論.jp
(写真提供:Photo AC)
「『ああすれば、こうなる』ってすぐ答えがわかるようなことは面白くないでしょ。『わからない』からこそ、自分で考える。……それが面白いんだよ」。わからないということに耐えられず、すぐに正解を求めてしまう現代の風潮についてこう述べるのは、解剖学者・養老孟司先生です。今回は、1996年から2007年に『中央公論』に断続的に連載した時評エッセイから22篇を厳選した『わからないので面白い-僕はこんなふうに考えてきた』より、1996年8月のエッセイをお届けします。
* * * * * * *
都市化一直線
戦後の日本を評するに、実際的には「都市化」という表現がもっとも適切だと、私は思う。そう考えて、まずはじめに思い当たることは、昭和30年代だと思うのだが、日本全国の町に「銀座」ができてきたことである。当時それが、マスコミの話題になったという記憶がある。
銀座に象徴されるものは、ここは田舎ではない、もはや都市だ、という住民の願望ではなかったのか。なぜかわれわれは、都市化を目指して、一直線に突っ走って来たらしい。民主化とは、どこも都市になり、だれもが田舎者でなくなることだった。
たとえばいまの日本が、徹底的に輸出入に頼っていることは、小学生でも知っている。それは経済が発展し、「近代化」したおかげであろうか。『方丈記』には、次のように書いてある。
「京のならひ、何わざにつけてもみなもとは田舎をこそ頼めるに、たえて上るものなければ、さのみやは操(みさお)もつくりあへん、念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす」
「田舎」はどこにいったのか
これはもちろん、終戦後にもあった風景である。たかがしれたものだったにせよ、わが家から「財物」が消えたのは、戦後の食糧難時代である。そのころに着物その他の売り食いをしていた人たちは、『方丈記』にこんなことが書いてあったなあと思いつつ、そうしていたのであろうか。むろんそれどころではなかったに違いない。
鎌倉の街にあったある骨董屋は、戦争中は軽井沢の八百屋だった。軽井沢には、都会人という意味での偉い人が多かっただろうから、食糧難の時代に八百屋をやっていれば、「さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとく」持ってくる客が絶えなかったであろう。だから、戦後しばらくしてから、八百屋が骨董屋になってしまったのである。
『わからないので面白い-僕はこんなふうに考えてきた』(著:養老孟司 編集:鵜飼哲夫/中央公論新社)
ともあれ私より上の世代は、そうした状況をもちろんよく記憶しているであろう。さらに私の年代は、食と安全を求めて、田舎に疎開した。
いまでは日本がほとんど輸出入に頼っているということは、日本全体が鴨長明のいう「京(みやこ)」になったということである。都市に対立するものは田舎だが、その田舎が日本列島から消えてしまったらしい。
それならその田舎はどこにいったのか。すぐには見えないところ、つまり外国に移ったにちがいない。南北問題の「南」とは、つまりそのことであろう。
高齢化社会が最初に来た地
田舎が「消えた」というと、田舎の人は怒るかもしれない。これは実際に消えたというよりも、意識から消えたのである。
いわゆる高齢化社会を考えてもわかるであろう。なぜなら、高齢化社会が最初に来たのは、日本列島のなかでは、過疎地だったからである。
それからずいぶん経って、やがて「高齢化」社会になるとマスコミがいい出した。それを見聞きして、私は一人で腹を立てていたが、それは過疎地ではとうの昔に高齢化社会が来ているのに、あたかもそうした事態がこれから来るように報道したからである。
この例だけからでも、いかにジャーナリストが都会人かわかる。自分のいるところが「高齢化」しない限り、高齢化社会ではないのである。
都市は都市のみで立ちはしない
戦後の日本は要するに都市化した。「何わざにつけてもみなもとは田舎をこそ頼める」状況なのに、その田舎が「見えない」から、都市だけが現実だと思ってしまう。さらにそれを「近代化」ということばで覆ってしまったら、ますます田舎は見えなくなる。
しかし都市が都市のみで立ちはしないことは、それこそ鴨長明だって知っていたのである。だから「国際化」が叫ばれる。しかしそれも、ほとんど外国の都市を向いている。
外国の田舎に接するという意味での国際化ではない。外国の田舎というのは、いまではつまりわれわれの田舎ではないか。
昨年私はブータンに行ったが、今年はヴェトナムに行った。なにをしているのかというなら、自分の田舎を表敬訪問しているだけである。いうなれば、どこに「疎開」先を見つけておいたらいいか、それを考えている。
※本稿は、『わからないので面白い-僕はこんなふうに考えてきた』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
関連記事(外部サイト)
- 「医療と距離を置いてきた僕が肺がんを見つけられた理由は…」87歳の養老孟司が病院に行くべきか迷ったときに従う<声>とは?
- 病院嫌いの養老孟司が<抗がん剤治療>を決断した理由。「治療に関して私は原則を決めている。自分で医者を選び、そのあとは…」
- 養老孟司の<小細胞肺がん>を東大の教え子・中川恵一が解説。「普通の人なら、がんとわかるとそれなりにショックを受けるが、先生の場合…」
- 養老孟司のがん治療を支える娘・暁花が語る父への思い。「役立ちたいと見舞いに行っても塩対応。それで心が折れそうになったことも」
- 養老「90歳で倒れた母。子供が面倒を見なくなったら自分で歩けるように…」養老孟司×小堀鴎一郎が<病院での死>を考える