源頼朝の妻「尼将軍」北条政子は、嫉妬深い“悪女”だったのか

2024年12月17日(火)5時50分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


日本三代悪女

 源頼朝の妻・北条政子は、日野富子や淀殿と並んで「日本三代悪女」と呼ばれることもあります。その要因の1つとしては、彼女の「強い嫉妬心」を挙げる人もいます。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれた逸話ですので、ご存知の方も多いかもしれませんが、それは次のような話です。

 寿永元年(1182)頃、源頼朝には、愛妾がいました。亀の前(良橋太郎入道の息女)という女性です。頼朝は、当初、亀の前を自分の近くに置いておくのではなく「遠境」(鎌倉外)の家臣の館に囲っていました。その理由を、外聞を憚ったと『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)には書いています。世間の噂になり、愛妾がいることがバレて、恥ずかしいというよりも、妻・政子に愛妾の存在が発覚することを恐れたためと考えられます。

 亀の前が家臣(小中太光家)の邸にいることは、『吾妻鏡』の寿永元年6月1日条に記されているのですが、その翌月(7月)14日条には、頼朝の「色事未遂」とも呼ぶべき、話が記載されているのです。正室の政子、愛妾の亀の前がいながら、頼朝は、新田義重の娘に「艶書」(恋文)を送っていたというのです。

 しかも、義重の娘は、頼朝の兄・源義平の妻(後家)でありました(義平は、1160年、平家により捕えられ、都で斬首)。頼朝は家臣の伏見広綱に命じて、義重の娘にラブレターを密かに贈っていたのです。が、義重の娘から色良い返事はありません。それでも、頼朝は諦めきれず、ついに、義重に直接、「そなたの娘が欲しい」と打ち明けます。義重は色々と考えた挙句、娘を頼朝にやることを拒否するのです。

 その理由は頼朝「御台所」(政子)の「後聞を憚り」というものでした。義重は、自分の娘を頼朝に差し出した場合、政子から、自分や娘が酷い仕打ちを受けることを想像したのでしょう。義重は政子の気質というものをある程度は知っていたはずです。よって「賢明」な判断ができたのでした。彼は、娘を師六郎という者に嫁がせてしまいます。

 そうすれば、さすがに頼朝も諦めるだろうと考えたのです。確かに、頼朝は義重の娘を諦めたのですが、今回のこともあり、義重に不快感を持つことになったようです。その頃、政子は妊娠中で、同年8月12日に、男子を出産しています。当時は一夫多妻が普通ではありますが、正室の妊娠中に他の女性を口説こうとする頼朝に「何やっているんだよ」とツッコミを入れた現代人(読者)も多いでしょう。


「攻撃は最大の防御なり」

 さて、頼朝は亀の前を、遠方から近くに引っ越させます。今度は、伏見広綱の邸に住まわせたのです。だが、そのことにより、亀の前の存在が、政子に露見してしまいます。政子の父・北条時政の後妻・牧の方が、政子に頼朝愛妾の存在を囁いたようです。政子は大層、憤り、亀の前が住む伏見広綱の邸を襲撃させ、破壊させたのです。広綱は亀の前を連れて、脱出することができました。

 政子が、亀の前の命まで狙おうとしたのかは分かりません。邸を破壊し、恥辱と恐怖を与えれば、亀の前は身を引くだろうと考えた可能性もあります(『吾妻鏡』によると、亀の前は柔和な女性とのことです)。

 このような騒動があっても、頼朝は亀の前のところに泊まっているのですから、頼朝という男も胆が太い。同年12月10日、亀の前は、元々いた小中太光家の邸に移住します。亀の前は、騒動後、政子の「御気色」を頻りに恐れていたといいますから、その事も大きいでしょう。それから、6日後、亀の前を住まわせていた伏見広綱は、突然、遠江国(静岡県西部)に配流となります。政子の憤りのためと『吾妻鏡』は記します。

 その後、亀の前の名は『吾妻鏡』には見えず、彼女がどうなったのかは不明です。が、政子の「勝利」となったことだけは確かです。この一連の出来事を見ていくと、最初に紹介した新田義重が娘を頼朝にはやらず、他家に嫁がせたことが、如何に「賢明」かが分かります。娘を嫁がせていたら、大なり小なり、亀の前と同じような運命を辿ったことでしょう。

 頼朝は、幕府に仕える女官(大進局)にも手を出し、文治2年(1186)に男子(貞暁)を産ませています。ところが、大進局の妊娠に気付いた政子を憚り、頼朝は、大進局を家臣に預け、その家臣の邸で出産させているのです。出産の儀式も省略されました。政子の目があったため、この母子は人目を憚るように生きねばなりませんでした。

 その後、貞暁は京都・仁和寺で出家。仏門に入るのです。頼朝の女性問題に対する政子の態度は「嫉妬深さ」から解釈されることも多いようですが、嫉妬深さだけをクローズアップするのは間違いだと思います。そうではなく、政子は自分のライバルとなるべき女性を次々と蹴落としているのです。

 源氏の血を引く貴種・頼朝に対し、政子は伊豆国の小中豪族の娘。「正室」と言えども、立場は不安定なものだったと推測されます。前述の新田義重も源氏ですが、その娘が頼朝の男子を産んだ場合、大仰に言えば、政子とその子の存在が消し飛んでしまう可能性すらありました。

「源氏の娘から生まれた男子を後継に」と頼朝が考えることもありえます。亀の前にしても、どこかの豪族の娘だと考えられますが、それでも(特に男子を産めば)、政子にとって変わる可能性もあった。そうした「不安」が、政子を、これまで見てきたような行動に走らせたように思うのです。それは一種の「防衛本能」と言っても良いかもしれません。「攻撃は最大の防御なり」で、政子は頼朝の愛妾に攻撃と圧力を巧みにかけつつ、勝ち抜いてきたのでした。

筆者:濱田 浩一郎

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