パリ五輪・体操男子団体主将・萱和磨、大逆転の金メダルに導いた「あきらめない」メンタルと「選手を信じる」姿勢
2024年12月25日(水)8時0分 JBpress
文=松原孝臣 撮影=積紫乃
現実と夢が分からないような感覚
あの瞬間の光景は忘れがたい。
2024年7月29日、パリオリンピック体操男子団体決勝。日本の最終種目は鉄棒。最後を締めくくる橋本大輝が着地しフィニッシュ。好演技で終えると、肩を組んで見守っていたチームメイトたちが勝利を確信し、喜びに沸く。
その中に、主将の萱和磨がいた。ふだんの落ち着きとは対照的に感情を爆発させる姿は、パリまでの歩みと、パリに懸けた思いを伝えていた。
あれから時が経ち、年が変わろうという師走。萱は穏やかな表情で話し始めた。
「あのときは、20年間、金メダルだけを求めてやってきて、その夢がかなった瞬間だったので、もちろんうれしくて、感極まっているんですけど、本当に正直、あのときは現実と夢が分からないような感覚でした」
決勝がスタートしてからトップを走る中国に差をつけられ、鉄棒を迎える時点で3・267点の差がついていた。逆転は困難と思える大差だった。萱はうなずくと、こう語った。
「体操競技で3点というのは大きな差で、簡単にはひっくり返らないんですけど、試合中は絶対にあきらめない、どんな点差だろうと、試合が終わるまではあきらめずにやっていました」
あきらめない——そのとき、主将である萱の存在は大きかった。萱はいかにしてチームをまとめ、あきらめない姿勢を持たせたのか。
「事前合宿から18演技をしっかり全員でつなぐということを意識してやっていましたし、最後の最後までオリンピックは何が起こるか分かりません。ここまでの大逆転はあまりなかったですけど、過去にも逆転があったり、ほんとうに何があるか分からないというのは、僕も東京オリンピックを経験して感じていたので、みんなに『あきらめるな』と声をかけて、心が折れないようにしようとしていました。
苦しい場面もところどころあって、そういうときこそみんなが声を出していたなと思っています。苦しい場面をどうにかして脱出するぞ、チーム全員がなんとかよくしようと、演技していない時間もすごくいい試合展開だったなと思っています」
事前合宿から培ってきたチームとしての力と、東京オリンピックを経験している萱の存在があったのだ。
萱は東京で悔しい思いを味わっている。団体でわずか0.103点の差で銀メダルであったことだ。
「東京のときも演技自体は仕上がっていたんですけど、自分のことしか見えてなかったというか、初代表の初めてのオリンピックだったので、チームのことまでは見きれていなかったですね。東京オリンピックからパリオリンピックは、自分のことをやることは大前提として変わらなくて、その先にチームのことに少しでも気を配るようにしたからこそ、チーム力が強くなったのかなと思います。自分のことプラス、チームのことという考え方を全員が持ってくれたからこそよかったのかなと思います」
体操競技は陸上の駅伝と一緒
東京を経て、チームを考える姿勢をより大きくさせた萱は、こう心がけてきたという。
「いちばんは選手を信じることだなと思っていたので、試合では自分の演技をして次の選手にバトンをつなぐことが必要だと思っていました。練習中も口に出して言うよりは、最初のミーティングや試合の前日に声をかけていましたが、自分の見せられるところは練習の姿勢だと思っているので、自分が信頼されるような行動や練習をすることでみんなも相乗効果で頑張ってくれると思っていました。自分のやるべきことをやるのは東京オリンピックから今も変わらず、チームばかりに目を配ってしまって、自分のことがおろそかになってしまうのは違うので。
体操競技は陸上の駅伝と一緒で、自分の演技が終わってそれをバトンとして繋いでいくのが団体戦なので、自分の演技に任された種目をしっかりやってチームにバトンを託すという考え方を持っていたことが勝利につながったのかなと思います」
萱は、「失敗しない男」と言われるほどパフォーマンスが安定していることでも知られる。
「失敗しないというのはその一つの技に対して複数の技術があって、その技術をしっかりこういう場面でこの技術を使うっていう風に、究極の場面でも的確に選択することがミスをしないことにつながっています。練習でいろいろ引き出しを増やしてシミュレーションをして試合に挑んでいるので、やっぱり練習での準備が自分の安定感につながっているなと思います。」
それは自分が体操選手としてどう生きるべきかを把握していたからであったのは次の言葉にうかがえる。
「自分の強みは継続するところだと思っているので、体操選手というか、日本代表に必要な選手になるために、自分の強みは何だろうと思ったら継続をいかして、安定感のある演技というのが自分が日本に求められていることだと思いました。人によってはスペシャリストだったりもすると思うんですけど、僕の性格上、そこは目指すところではないので、自分をほんとうに理解して自分の生きる場所を探して、なりたい自分になれるようにしてきました」
ターニングポイントもあった。
「リオオリンピックの代表落選ですね」
萱は試合を、観客席から見守った。
「28年生きてきて、あれより辛い、悔しい経験は今のところないです。それぐらい19歳の自分にとっては大きかったです。でもそこから、日本代表に必要な選手になろうと苦手を克服したり、しっかり自分のポジションを考えるようになりました」
悔しさをばねにしつつ、性格を含め自分自身のことを知り、体操界をみつめ、長所を磨いてきた。それに経験が合わさり、萱はパリで輝いた。
そして今、これからの競技人生、体操をみつめている。(続く)
筆者:松原 孝臣