発生50年「三億円事件」現場のいま あの日この場所で、犯人は何を考えたか

2018年12月29日(土)11時0分 Jタウンネット

戦後最大級のミステリー、三億円事件から50年が経った。


事件は1968年12月10日に発生。日本信託銀行国分寺支店(東京都国分寺市)から東芝府中事業所(府中市)に向けて出発した、東芝従業員に支払われるボーナス総額3億円を載せた現金輸送車が強奪され、時価換算では今もって国内の犯罪史上最高額とされる金額が奪われた。


戦後犯罪史に残る未解決事件となった3億円事件。からちょうど半世紀後の18年12月10日、記者は事件発生現場をたどって、時代の変わりようと犯人の手口に考えを巡らせた。


半世紀後の強奪現場


現金輸送車が強奪されたのは1968年12月10日午前9時22分頃、東京では季節外れの雷雨が降っていた。あと数十メートルで目的地の東芝府中事業所内というところで、ニセ警官に輸送車を止められ、職員は3億円を車ごと奪われた。


その手口についてはもはや言うまでもないが、


「支店長の巣鴨の自宅が爆破されました。この車にも爆弾が仕掛けられているかもしれない」

と言って車の点検を装い、爆発すると見せかけて発煙筒を焚いて職員3人が車から逃げた隙に車を運転して逃走、そのまま75年に時効を迎えて事件は迷宮入りした。


その現金強奪現場は府中刑務所北側の通りで、JR武蔵野線の線路と北府中駅をはさんで広大な東芝府中事業所(以下、東芝府中)が広がり、府中刑務所に向かい合っている立地である。


現在はJR武蔵野線になっている北府中駅だが、1968年当時武蔵野線は未開業。下河原支線という中央線の支線の駅だった。現場となった府中刑務所北の道路、通称学園通りは同じ場所に存在し、人や車が行きかう様子は普通の街と変わらない。


刑務所の北ということで大胆不敵な犯行の印象を受けるが、それまで現金輸送車が走っていた国分寺街道は通りも広く、道路の東西に住宅や学校が広がる。


そこから学園通りを走るとすぐに東芝府中の構内に入ってしまうため、目撃される心配や交通量が少なく、現金輸送車を停めやすい場所として計算の上でこの場所を選んだのではと思わせられる。


何せ後述するように犯行現場の他にも複数の場所で車両を用意して偵察や逃走に備え、予め国分寺支店宛に爆破の脅迫状を送るほどの計画性と周到さを持ち合わせた犯人である。


とはいえ現在では東芝府中に出入りする車両が多く、住宅地の中では交通量が多い印象を受ける。50年前の犯行当時も東芝府中側から自衛隊の車両が通りかかっていて、場所を選んでもなお薄氷を踏むタイミングだった、犯人には運も味方したのだろう。


道路の府中刑務所側は広い歩道として整備されている。「刑務所」「工場」「重大事件の現場」から受ける印象とは逆に平穏な時間が流れている。そんな中で、強奪現場からも見える東芝府中のエレベーター試験棟がまるで監視塔のような異様な存在感を放っていた。


また国分寺駅北口付近にあった、現金輸送車が出発した日本信託銀行国分寺支店は、現在は全く別の建物になっている。


白バイを用意した「第3現場」


三億円事件にまつわる現場はここだけではなく、捜査で明らかになっているだけでも3つの痕跡を残した。まず白バイ警官に変装した犯人が犯行直前まで待機していたと推定される通称「第3現場」がある。


現場となった学園通りの国分寺街道寄り、北に延びる路地を入った空き地に、事件発生直前までシートがかけられたバイクと、緑色の不審なカローラが出入りする様子が目撃されていた。カローラは現金輸送車の監視用で、ニセ白バイはここから発進したとみられている。


当時は1200坪にも及ぶ空き地だったそうだが、現在は所狭しと人家が立ち並び、道路も舗装されて様変わりしていた。車が停められる小規模な駐車場もあったものの、当時白バイが停められていた場所とは無関係だろう。


しかし、今回改めて事件の経緯を調べて気になったのは、犯人がこの現場に緑色のカローラをそのまま放置したことだ。単独犯行説を補強する根拠にはなるが、素早くカローラを降りてニセ白バイに乗り換え、現金輸送車に追いつくという綱渡りのような行動が用意周到な犯人像には不釣り合いで、真相は闇の中である。


国分寺跡「第2現場」で輸送車を捨てた?


強奪された現金輸送車は武蔵国分寺跡の広大な土地に遺棄されていたのを当日に発見された。ここで逃走用のカローラに乗り換えたとみられているが、別の場所で現金を積み替えた可能性も指摘されている。ここまで来ると府中市ではなく国分寺市の市域になる。事件はしばしば「府中三億円事件」とも呼ばれるが、犯行に使われた盗難車は日野市や府中市で盗まれていて、カローラを乗り捨てた後述の第4現場と併せて多摩地域一帯を駆使した計画的犯罪というべき全体像が浮かび上がる。


国分寺跡は現在でも人の気配はまばらで街灯も見当たらない。事件当時ともなれば尚更だろう。この場所を選んだ犯人の土地勘の良さを思い知る。


手配車を4か月も放置—団地の「第4現場」


事件発生当日、現金輸送車が発見された時点で、東京都下で大々的に検問が行われたものの、逃走車を発見することができなかった。目撃証言から、盗難された濃紺のカローラ「多摩5ろ3519」と判明した逃走車、通称「多摩五郎」が発見されたのは事件から4か月も経った69年4月9日、強奪現場から10キロメートル近く離れた小金井市本町の団地の駐車場だった。


後に航空写真や証言を検証したところ、車は事件翌日から翌年4月9日に中古車のセールスマンに通報されるまで、団地の住民にも警察官にも気付かれずに放置されていたと判明した。


当時は中流層の憧れだった団地だが、この件は団地族の交流の無さや無関心さの一例として報じられたこともあった。現代ならやはり防犯カメラなどで簡単に特定されてしまうだろうが、昭和という時代の大雑把さ、犯罪捜査の難しさを感じさせる話である。


武蔵小金井駅から北へ1キロほどの場所にあるこの団地、現在も典型的な昭和の団地をとどめるような風景の中に建っている。とはいえ当時の写真では未舗装だった道路は整然と舗装され、駐車場の配置も変わっているだろう。


一方で、より駅に近いエリアではモダンなマンションが立ち並んでおり、住宅地として依然人気があることがうかがえる。この地に限らず、高度経済成長期に整備された団地は老朽化と住民の高齢化に直面して庶民の憧れではなくなっている。


60年代という時代を象徴するような3億円事件と共に、モーレツ時代の産物・団地も歴史の中に埋もれようとしているのだろうか。冬の傾いた日差しに照らされる街に、ふとそんな感傷を抱いた。


この日、府中・国分寺でも小金井でも、心なしか警察車両を見かける機会が多かった。年末に向けての特別警戒の一環であろうか。


時代の隙を見事に突いた犯人


半世紀後の多摩の街はごく普通の平成日本の日常が送られていたが、徒歩と鉄道だけでこの現場をすべて回るのは意外と骨が折れた。


多摩地域の広いエリアに複数のアジトを確保し車を用意しておく犯人の周到さに舌を巻くが、同時に多数の目撃証言、遺留品、検問をかいくぐって逃げおおせた運の良さも実感する。


現代ならば逃走経路やアジトも、捜査手法の進歩(有名なモンタージュ写真は事件とは全く無関係な一般人を参考にした)、カメラやDNA鑑定でより簡単に特定できてしまうだろう。


そして50年前は、東京といえども空き地や人気のない土地がまだまだ残っていた。地縁が薄れて都市化が進む絶妙な隙を突き、かつ車やバイクなど大衆に普及し始めた乗り物を駆使して捜査をかいくぐった、時代の隙を突いた完全犯罪といえる。


鮮やかな手口と一人の死傷者も出なかったことから、犯人は時に英雄視もされ、半世紀の間に数えきれないほどの推理や創作がなされてきた。今回事件について調べ、現地で犯行の足取りを追ってみて、これほど多くのヒントを残しながら闇に消えた犯人に人々が魅かれる理由が感じられる取材だった。


参考文献:『日録20世紀 1968年』講談社、1997年
     『別冊宝島20世紀最大の謎 三億円事件』宝島社、2008年
      一橋文哉『三億円事件』新潮社、2014年

Jタウンネット編集部・大宮 高史

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