笠置シヅ子の歌手廃業に服部良一は「俺の歌を葬り去るつもりか」と怒った…誰も止められなかった引退の真相
1930年代の淡谷のり子(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
※本稿は、砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)の一部を再編集したものです。
■盟友の淡谷のり子は「笠置さんはズルイ」と皮肉を言った
1930年代の淡谷のり子(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
笠置が歌手引退宣言をし女優に転身したとき、「笠置さんはズルイ。目先を利かせて、うまいこと看板を塗り変えたわね」と言ったのは淡谷のり子だと思われる。
笠置と7歳年上の“ブルースの女王”淡谷のり子は、ともに服部良一に“女王”として世に送り出された先輩後輩の関係である。
この先輩は実にたのもしく生活力が旺盛で、人を見る目が鋭く毒舌家だった一方で、何事にも裏表がなく姉御肌という人徳もあり、戦後は“歌謡界のご意見番”として存在感を増していく。淡谷は笠置が戦後“ブギの女王”となってから、マスコミで堂々と笠置の批評・批判を繰り返した。その一つ、「東京ブギウギ」が大ヒットした1948年1月、週刊誌で淡谷が笠置をこう評している。
「最近人気が湧き、自分でも“日本一”のつもりでいるようですが、未だ苦しそうで、日本人の誤ったジャズ観が、あの人を台なしにしてしまうような気がします。私と合舞台で邦楽座ではじめて一本立ちでデビューしたころのあの人がなつかしく思われます」
『週刊朝日』1948年1月18日号「笠置シヅ子流行歌手」
■若い頃は笠置に「日本一のつもり?」とイヤミを言った淡谷
この合舞台というのは、1941年に笠置がSGD(松竹楽劇団)を退団後、独立してすぐに服部良一の計らいで淡谷と笠置が邦楽座で上演した「タンゴ・ジャズ合戦」を指している。タンゴを淡谷、ジャズを笠置が歌ったのだろう。淡谷はそれを懐かしく思い出し、先輩歌手として後輩の声を心配しているようだが、それにしてはちょっとイヤミだ。
記事ではこの淡谷のコメントに続き、服部良一が笠置をこう評しているのが面白い。
「地声そのままの歌い方は、とかくの批評もあるが“日本的”という但(ただ)し書きつきで、やはりジャズシンガーの第一人者だろう。弟子としても、実にかわいい。ぼくの歌だけしか歌わぬところなど、当否は別として、うれしい」
『週刊朝日』1948年1月18日号「笠置シヅ子流行歌手」
■淡谷は笠置の大げさなジェスチャーと歌い方を危惧していた
服部は笠置を手放しで擁護しているのだ。ここは淡谷の完敗である。服部が自分よりも笠置を可愛がっていたのは百も承知だったのか、淡谷は態度を変えず、批評はエスカレートする。
笠置の歌を「どうにも聞いていられないときがある」と言い、「それは彼女の不自然な発声法とオーヴァーすぎるゼステュアと、不必要にドナリたてる大きな声から受けるもの」であり、「歌を勉強したものにとっては、恐ろしささえ感じます」と、1950年5月21日付『朝日新聞』の芸能欄記事に書く。
自分は音楽学校でちゃんとした発声法を勉強したが、笠置はそうではない、だから心配だというのだ。「上京したころの彼女の歌い方には、一種の非常に好感のもてる特徴があり、そのまま伸びてゆけば実にいい歌手になれると思いました」(同)。戦前と戦後の笠置がどう違うのか不明だが、売れっ子になった今は好感が持てないと淡谷は言う。
映画『醉いどれ天使』で「ジャングル・ブギー」を歌う笠置シズ子(写真=製作:東宝 © 1948年 配給:東映/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)
■淡谷は「笠置VS美空ひばり」の確執にもアドバイスしたか
結局、自分たち戦前派の歌手は、若い戦後派の歌手に道を譲れとも書いている。「最近多くの人たちから聞くこと」と念を押しているところをみると、この前年にデビューした美空ひばりと笠置との確執の噂を指しているのは間違いない。淡谷は最後にこう止めを刺す。
「はなやかな生活が出来る時は、だれでも大切にされますが、もし人気を失ったとき相手にされなくならないように心掛けて、素直な気もちをもってほしいと思います。いま人気のある彼女のためにも憎まれ口を一くさり」(同)
しかし、晩年まで交流があったという淡谷は、笠置がいかに娘を愛していたか、身近に接して知っていたのだろう。淡谷のり子と笠置シヅ子はおそらく互いの性格を知り尽くし、ともに戦前戦後を生き抜いた先輩・後輩歌手として盟友だったのかもしれない。
■笠置が死去したとき、服部は「見事な引き際」と言ったが…
「段々高い声が出にくくなって来たので、よく音程を下げて楽譜を書き直ししていた事はあったが、これは年を取れば当然の事で、誰でも歌手ならやっている事である。しかし彼女の場合は或(あ)る日突然歌を止めてしまったので驚いた。はたから見た限りでは全然変わらないのに、彼女は自分自身の限界をさとってしまったのか、(略)常に妥協を許さないきびしい人で、うっかり冗談もいえない人だったが、ほとんど最盛期といってもよい時期に、ファンに最高の思い出を残して音の世界から消えてしまったのである。全く美事(みごと)というほかはない」
『文藝春秋』1985年6月号「回想の笠置シヅ子」
これは1985年3月の笠置の死の直後、服部良一が愛弟子を回想して月刊誌に書いた手記の一部である。1957年の笠置の歌手廃業宣言をマスコミや周囲の人々は、最盛期の歌手がファンに最高の思い出を残して去って行ったと、その潔さを称えた。高峰秀子も自伝で「小気味のいいほど見事な引退ぶり、見習いたい」と書いたほどだ。
服部もこの手記では笠置の歌手引退を「美事な引き際」としている。だが笠置が歌手を引退した1956、57年当時、肝心の服部がどう思ったのかがわからない。戦前に笠置を見出し、戦後「ブギの女王」に育てた師匠として、愛弟子の突然の“宣言”を実際のところはどう受け止めたのだろう。その資料が見当たらない。「驚いた」と手記に書いているから唐突で残念に思ったことは想像できるが、そのとき服部がそれを聞いて笠置になんと言ったのか。笠置にねぎらいの言葉でもかけたのだろうか。
写真=時事通信フォト
服部良一氏、作曲家、1980年3月30日 - 写真=時事通信フォト
■息子の克久氏は「おやじさんは怒りましたよ」と語った
私は、作曲家の服部克久さん(1936年〜、服部良一の長男)にお会いしてそのことを尋ねてみた。すると意外な答えが返ってきた。
「おやじさんは怒りましたよ。俺の作った歌を葬り去るつもりか、と。たしかにブギは笠置さんのために書いた。でもそれは彼女一人のものではない。服部良一にも相談せず、笠置さんは勝手にやめた。作曲家は歌手が歌ってくれないと、せっかく作った歌がこの世から消えてしまうことになる。もう踊れないからなんて、言い訳にはなりません。歌手は声が出る限り、死ぬまで歌い続けないといけないんです」
この言葉に私は一瞬ハッとした。まさに“目からウロコ”だった。そうなのだ、選ばれた表現者は死ぬまで“赤い靴”を脱いではいけないのだ、と。杉村春子も美空ひばりも淡谷のり子もみんなそうだったように。
■笠置は服部の曲しか歌わなかったが二度の危機はあった
笠置が絶頂期、田村秋子との雑誌の対談で、映画『赤い靴』の主人公が死ぬラストシーンに感動して涙を流したことを私は思い出した。服部克久さんの言葉を「意外」と思った反面、正直なところ私はどこかで、そうではないかという予感もあった。笠置が歌手を廃業すると公表した当時の服部のコメントが、まったくないというのはおかしいと思ったからだ。
服部の怒りも、わからないではない。これまでに二度、笠置は服部の手から離れようとしたことがあった。1939年に笠置が益田貞信の誘いでSGDから東宝へ引き抜かれようとしたとき、服部は前面に立って笠置を奪い返した。47年には笠置が吉本穎右との結婚を約束して芸能界引退を決心したが、穎右の死で果たせず、笠置は出産後に再起の曲を書いてくれと服部に頼んだ。
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)
結局、二度とも笠置は服部のもとに帰ってきたのだ。それなのに、今度はなんの連絡もなしに笠置は勝手に歌手を引退してしまった。そんな弟子に対する師匠の、やり場のない怒りが爆発するのは当然だろう。
服部は後年、「私は笠置君というバイタリティー豊かな歌手がいたからこそブギの曲が書けたわけであり、また私がいたからこそ彼女もブギが歌えたわけだ」と語っている。一方、笠置は服部との関係を、「人形遣いと人形、浄瑠璃の太夫と三味線のように切っても切れない関係」と自伝『歌う自画像』に書いている。服部にとって笠置は創造の泉、笠置にとって服部は道を拓いてくれた恩師。だが互いの才能に惚れ合った関係にも、幾多の葛藤があったに違いない。
■才能ある作曲家と歌手としてお互いに抱えていた葛藤
とくに戦後、ブギが爆発的にヒットして笠置は時代の寵児になるが、服部はあまりにも売れっ子になった“笠置のブギ”に当惑するのである。服部が生み出したブギとは別に、笠置のバイタリティーあふれるボディーアクションの魅力に人々が熱狂したのだ。
笠置の魅力はそこにあると知りながら、ブギウギ本来の音楽性からはみ出していると服部は苛立つようになり、音楽家として自分が生み出したブギに悩み、スランプに陥っていく。真摯(しんし)な表現者ほどぶつかる道かもしれない。まるで一心同体のような「人形遣いと人形」とはいえ、いつかは表現者として別の美学、別の道が生じるのは避けられないものなのだ。どうやら服部が笠置の歌手引退を「美事な引き際」と思えるようになるまでには、長い時間が必要だった。
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砂古口 早苗(さこぐち・さなえ)
ノンフィクション作家
1949年、香川県生まれ。新聞や雑誌にルポやエッセイを寄稿。明治・大正期のジャーナリスト、宮武外骨の研究者でもある。著書に『外骨みたいに生きてみたい 反骨にして楽天なり』(現代書館)など
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(ノンフィクション作家 砂古口 早苗)
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