酒の賢人が語る名酒場。鎌倉『祖餐』の魅力とは?
食楽web
20年後の名酒場を賢人に聞く!
平成という時代を越え愛され、語り継がれた酒場が「昭和の名酒場」と呼ばれるなら、令和という新時代を迎えた今、いつか「平成の名酒場」と呼ばれる店が、どこかでひっそり営まれているのではないでしょうか。
今回は、酒の賢人であり、文筆家の井川直子さんに、鎌倉の酒場『祖餐(そさん/祖の字は示偏。以下同じ)』の魅力について語ってもらいました。
品書きはもはや文学。『祖餐』の魅力
『祖餐』の品書きは文学だと思っている。満寿屋の400字詰め原稿用紙はクリーム色の紙にクリーム色の罫線、そこに店主の石井英史さんが、ブルーブラックの万年筆で「つまみとおかず」を日々したためる。
−八月十三日/打ち豆とマッシュルームのレモンバター/パンにストラッチャテッラチーズと魚醤/夏やさい、あげびたし−
ただ、月日と食べものの名前を淡々と。なのに詩を読むように、心が波立つのはなぜだろう? 美味しそうだけじゃない、夏の気配や鎌倉の匂いに混じる、外国の不思議な言葉。ひとマスに収まっているようではみ出してもいる、礼義正しさと自由が共存する石井さんの文字も、前日分、その前、その前と頁をめくらずにはいられない。目が味わいたがって仕方ない。
鎌倉の古い木造家屋、狭い階段でおでこをぶつけそうになりながら二階へ上がると『祖餐』がある。大きなテーブルに知らない人と相席し、台所と呼びたい厨房は客席とフラットにつながっている。つまり、境界というものがない。石井さんは、その間をゆらゆらと行ったり来たりしながらお酒を選び、注いで、ときどき話す。私はといえば、地元のクラフトビールや、自然な造りのワインと日本酒なんかを、やはり行ったり来たり。
自然な造りのワインと日本酒、ビールを扱う。ビールは地元の「ヨロッコビール」と「バーバリックワークス」が中心。左から日本酒半合500円〜、グラスワイン800円〜、ビール1000円
今、メニューも予約時間も、お客さえも店側が選び枠を決めることが多い中、この酒場は真逆。あらゆることが、決まっていない。
その日のグラスワインも一日の中で顔ぶれが変わるし、それ以前に、私は銘柄で選んだ記憶さえない。元気になりたい、と〆切明けの目で訴えれば、お疲れさま、とでも囁くようなジュラの白が差し出されたりするのである。
美味しいとこ取りの「つまみぐい」。写真は2名分、ほかに小鉢、おかずなど数品で1人2200円
料理を賄う妻の美穂さんもまた、この人は普段ひじきなんて食べないだろうな、などと想像してセットでも内容を替えてしまうそうだ。夫妻は、一人ひとりの顔を見る。それは人とちゃんとつき合うということで、決めない彼らは、そう在るための余白を持っている。
これまで昭和の店を少なからず取材してきたけれど、長く続く店には、やさしさがある。やさしさの出所はそれぞれ違うが、『祖餐』のそれは、揺らぎにあるといつも感じる。お客が喜ぶほうへ、自分たち自身も楽しいほうへ、有機的に形を変えていく店である。ちょこちょこ臨時休業しては旅に出るから、四月の品書きは台湾の食材でいっぱいだったのに、八月はブータン。秋になれば、たぶん石井さんの母のちまきが現れる。
『祖餐』は揺らぎながら変わり続けるが、そこに意図はなく、自然の理でそうなった形である。そう言えば、昭和の名酒場が持つ「型」だって長い年月をかけてそうなった答だな、とひとり腑に落ちた。
(撮影◎太田隆生)
●SHOP INFO
店名:祖餐 SO SAN
住:神奈川県鎌倉市御成町2-9
TEL:0467-37-8549
営:17:30〜22:00(L.O.)、土曜15:00〜、日曜15:00〜20:00(L.O.)
休:不定休 ※できるだけ予約を
※価格は全て税別
●プロフィール
酒の賢人・著者/井川直子
文筆業。食と酒にまつわる「ひと」と「時代」をテーマに執筆。著書に『シェフを「つづける」ということ』『昭和の店に惹かれる理由』(共にミシマ社)、『変わらない店 僕らが尊敬する昭和』(河出書房新社)。今年は、私家版『不肖の娘でも』(リトルドロップス)を上梓。
※当記事は『食楽』2019年秋号の記事を再構成したものです
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