なぜ「完売」したのに、家が建たなかったのか…千葉県北東部に「限界分譲地」が大量発生した知られざる理由

2024年2月17日(土)8時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/avstraliavasin

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千葉県北東部には、1970年代から80年代に住宅用として販売された分譲地がたくさんある。そうした分譲地は、発売当時に完売しているが、実際に住宅が建っているケースは稀だ。『限界分譲地』の取材を続けるブロガーの吉川祐介さんは「資産形成を夢見るサラリーマン層に投機目的で販売されたもので、実際に人が住むことはなかった。何十年も空き地のまま放置され、現地では問題になっている」という——。

※本稿は、吉川祐介『限界分譲地 繰り返される野放図な商法と開発秘話』(朝日新書)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/avstraliavasin
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■大半は「投機用」として分譲された


僕が高度成長期以降の千葉県北東部に開発された限界分譲地の資料を探す際、もっとも多用しているのが、図書館に所蔵されている新聞の縮刷版である。曜日や時期によって若干の差はあるが、1970年頃以降の新聞紙面には多くの不動産広告が掲載されている。


その多くは都心周辺の分譲マンションや、大手デベロッパーや私鉄系の不動産会社などが開発した、今日でも都心部通勤者のベッドタウンとして機能している駅徒歩圏の比較的立地の良い大型分譲地のものである。


それらの広告の中に、名目上は住宅地・別荘地ではあるものの、そのアピール内容から、実際には居住用ではなく、投機用として売り出されたであろう分譲地の広告が散見される。その所在地を改めて調べてみて現況を確認しない限り、一見すると他の一般の住宅分譲地の広告と変わらないように見えるものも少なくない。


今ほど多様な宣伝媒体がまだなかった当時、不動産広告はこうした新聞や雑誌、あるいは折込チラシなどで出されるものが多く、それは都心部であろうと、へき地の分譲地であろうと変わらなかった。なお、次ページの不動産広告に分譲会社として記されている五宝不動産株式会社はその後倒産した可能性が高く、現存する同名企業とは異なる会社だと思われる。


投機的に売買された千葉県多古町の分譲地の広告。成田空港の開港に合わせ、買い手を煽る文句が並ぶ。(1971年7月31日付読売新聞)(出所=『限界分譲地』)

■千葉県郊外はうってつけだった


宅地開発や分譲、あるいは別荘地の開発分譲などは戦前から行われていたが、宅地開発が急速に拡大するのは1960年代以降である。


戦後のベビーブーム、産業構造の変化に伴う都市部への人口流入、また戦禍によって焦土と化した都市部の市街地の復興に伴う需要増など、新規の宅地開発が加速した要因はいくつも挙げられるが、いずれにせよ結果として発生したのは、都市部における深刻な住宅不足であった。


もちろん国や自治体・行政も、そんな住宅難に手をこまねいて見ていたわけではない。例えば東京都の多摩ニュータウンや神奈川県の港北ニュータウンなど、官民合同による大型の住宅団地の開発も盛んに進められていたのだが、都市部への人口流入はそれをはるかに上回るペースで続いており、深刻な土地不足・住宅不足に陥っていくことになる。


需要が高まる一方、供給が限られているとなれば、市場の原理として当然価格も上がる。


戦禍の爪痕が消え、復興がさらに進むにつれて、開発用地は争奪戦の様相を呈していくことになる。潤沢な資金を持つ大手デベロッパーは、条件の良いまとまった土地を仕入れ、そうではない中小以下のデベロッパーは、それなりの価格の、それなりの条件の土地を仕入れていく。


写真=iStock.com/Pawel Gaul
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■不動産が堅実な投資先だった


エンドユーザーには、そうしたデベロッパーが開発した高額の分譲地を購入し、当時は借入の要件が厳しかったローンに自己資金を組み合わせて、人生を懸けた買い物として住宅を取得する以外の選択肢がなくなっていった。


その分譲地にしても、条件の良いものは抽選が行われるほどの盛況ぶりで、予算に合うからといって必ずしも確実に購入できたわけでもないのである。高度成長期に向け、土地の取得熱は過熱する一方であった。


しかし、資産形成を夢見る庶民層にとって、年を追うごとに上昇し続ける不動産価格は、住宅取得のうえでは悩ましい問題である反面、投資の対象としてこれ以上ないほど堅実なものでもあった。


今日でも、人気の商品や限定商品などを販売開始と同時に買い占め、そのまま高値で売却する「転売屋」の問題がしばしば取りざたされるが、その是非はさておき、見方を変えればそうした転売行為も一種の「投機」ともいえる。


当時の不動産売買の現場においても、値上がり後における高値の売却を見込んだ、投機・転売目的の購入者が現れるのは必然であった。


■現地見学会は活況、購入申込者の行列も


新聞の不動産広告は、1970年頃になると、目に見えるほど顕著に増加していく。数週にわたって掲載されている広告もあるにはあるのだが、多くの広告は、1度、2度きりの掲載で、次々と新規の分譲地の広告が登場している。


ほとんどの場合、数日間の日程で「現地見学会」の日時が設定されており、たとえ分譲地が千葉の山奥であろうとも、集合場所は東京都内や神奈川県内の主要駅で、専用のバスを手配し、参加費はもちろん無料、昼食まで提供されるというもてなしぶりである。そんな見学会の案内には必ず、申込金の持参を促す記述があり、参加者は見学終了後、列をなして購入の申し込みを行っていた。


宅地分譲は今の時代でも行われているが、規模にもよるとはいえ、現在の宅地分譲は通常、造成された宅地に販売業者が立てたのぼりや看板が並び、時には建売住宅をモデルハウスとして、都度見学会を開催しながら完売まで営業活動を続ける、という販売手法が一般的だと思う。


しかし、この時代はそんなレベルではなく、条件が良ければ瞬く間に完売していた。


よほど悪条件か、あるいは固有の事情でもない限り売れ残りなどまず考えられないほどの盛況ぶりで、だからこそ同じ分譲地の広告が長期間にわたって掲載されることなどなかったのだ。当時の不動産広告は、その更新頻度の高さもさることながら、広告に躍るキャッチコピーからも、土地ブームの熱気というものが伝わってくる。


■完売しても家が建たない


そうした広告の中に、時折「先取り」のキャッチコピーが見られることがある。自己使用のための住宅用地の販売にはそぐわない表現だ。こうした分譲地は、おそらく販売業者側も、建前上は住宅地を謳(うた)っていたとしても、実際には購入希望者のほとんどが投機目的であったことを十分承知していたはずである。


その分譲地の周囲にも、すでに完売しているにもかかわらず、一向に家屋の建築が進まない分譲地が至る所に点在していたからだ。矢継ぎ早に新規の宅地開発が繰り返される中、その市場の現状すらも把握せずに宅地開発に参入する業者などあるはずもない。


開発業者にしてみれば、いったん販売してしまえば、その後購入者が実際にそこに家屋を建築するかどうかは、さして問題ではなかっただろう。安価に開発して、安価に素早く売却し、それを元手にさらに次の土地を開発する、それが当時の投機型分譲地のビジネスモデルであった。そこに、良質な住環境を整備しようという都市計画の理念が入り込む余地はない。


写真=iStock.com/Denise Hasse
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これは今でもあまり変わらないと思うが、町村レベルの小規模自治体は、潤沢な資金を持つ企業の開発行為や活動を抑止できる力を持ち合わせていないことが多い。首長より、地元の土建会社の方が実質的に立場は上といった話は珍しくもないし、しばしばその癒着が表沙汰になり刑事事件化したりする。


■なぜ自治体は、野放図な乱開発を放置したのか


そのあまりに野放図な乱開発が問題視され、のちに線引きに踏み切ることになった千葉県の旧大網白里町や富里(とみさと)町(現・富里市)の例もあるのだが、当時乱開発のターゲットになった自治体の中には、どこかでその乱開発に、税収増や人口増、発展への期待を寄せていた面もあったのではないだろうか。


今、それらの地域に残された投機型分譲地の乱開発ぶりを見ても、そこに何らかの抑制が働いていた形跡を読み取ることはできない。ありていに言えば道路の形状もデタラメ極まりないもので、およそ計画性とは程遠い様相をさらしている。


写真=iStock.com/Mr_Twister
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千葉県は、半島という地形上の制約から、もともと東京近郊部と、東京から離れた郊外・農村部において、交通利便性も含めた発展の度合いに著しい格差がある。


東京寄りの自治体において次々と宅地開発が進められ、ベッドタウン・郊外都市として変貌していく一方で、外縁部の小規模自治体にも、やがてその開発の波が押し寄せるのだろうという淡い期待を、分譲地の購入者はもちろん、地元自治体や、時にはそれを開発・販売していた側にさえ抱かせてしまう情勢にあったのだ。


■右肩上がりの土地価格が最強の営業ツールになった


そうした当時の投機型分譲地の販売模様を伝える資料は、今となっては当時の新聞広告をしらみつぶしに探すほかはないが、70年代当時、これらの分譲地の販売手段としては、広告による宣伝のほか、営業社員による訪問販売という手法も採られていた。


各家庭への戸別訪問のほか、事業所、時には学校や行政機関などにまで不動産営業社員が出入りしていた。当時の営業模様を知る方の中には、むしろ広告よりそのほうが主流だったのではないか、と証言する方もいる。


その訪問営業の実態を、今仔細に知るのは困難だが、おそらく、新聞広告以上にその投機性を謳った勧誘が行われていたであろうことは想像に難くない。のちに詳述する、いわゆる「原野商法」の販売においても、販売手法は従来の投機型分譲地と全く変わらなかったからだ。


営業社員にしてみても、限られた資料の中で効率よく販売を行うには、利便性や立地を事細かに説明するより、土地そのものが持つ資産性や投機性を大雑把にアピールする方が話として手っ取り早いはずで、そして実際、それを裏付けられるほど土地価格が上昇していたのは紛れもない事実である。


■購入者は富裕層ではなく一般庶民


こうした投機型分譲地の購入者は、必ずしも富裕層というわけではない。取材の過程で、僕は70〜80年代に開発された旧分譲地の登記事項証明書を取得し、内容を精査する機会がしばしばある。


千葉県の分譲地の場合、その所有者名義の多くは東京・神奈川・埼玉といった首都圏の個人だが、その購入者の住所が、明らかに賃貸物件としか思えないような建物名であったり、時には社宅や公営住宅であったりする。一軒家らしきものにしても多くは、特に何の変哲もない住宅街と思われる住所が大半だ。


もちろんその情報のみで各購入者個人の資産状況を推し量ることはできないが、一般的に連想される「地主」や「富裕層」のイメージではないし、ましてや賃貸暮らしともなれば、今日の感覚ではどう考えても購入の順序が逆である。


時代は下り、さらに地価が暴騰した80年代後半のバブル期になると、購入と同時に抵当権が設定され、数百万円ものローンを組んで購入していた形跡のある土地もしばしば見られるが、現実には暮らすつもりも、利用するつもりもなかった土地に多額の費用を投じるという状況は、まさにその土地が「宅地」ではなく、株などの有価証券と同じく、「投資」「投機」の対象でしかなかったことを示すものだ。


■10分の1以下に大暴落、そして放棄分譲地になった


1976年に分譲が行われた千葉県下総町(現・成田市)のある住宅分譲地は、100区画にも及ぶ宅地の分譲販売が行われたにもかかわらず、その3年後の1979年に撮影された、同分譲地付近の上空写真を見ても、家屋はわずかに数戸しか見られない。ほぼすべての区画が投機目的で取得されたのだ。


つまり、開発用地の取得費用やそれにかかる経費を比較的安価にできる分、販売価格も一般のベッドタウンと比較して安めに設定できたへき地の分譲地と、財産形成の手段として不動産を購入したいが、用意できる予算が限られていた末端の個人投資家層の需給がここで合致した、ということになる。



吉川祐介『限界分譲地 繰り返される野放図な商法と開発秘話』(朝日新書)

一般の住宅取得者であれば、予算ももちろん大事だが、現実的に勤務先へ通勤可能か否か、家族や子供の住環境としてふさわしいかどうかも重要な判断基準になるはずだが、投資物件としての購入は、どうしてもそのあたりの実用性についての判断が甘くなりがちだ。ましてや、悠長に購入を考えているうちに完売してしまうほどの活況であった当時であればなおさらだろう。


結果としてそういった投機型分譲地のほとんどは、今日、当時と現在の貨幣価値の違いを度外視してもなお10分の1以下にまで実勢相場が下がってしまっているのが現実だが、果たしてこの土地ブームの時代、どれほどの人が今日の結末を予測できていたであろうか。


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吉川 祐介(よしかわ・ゆうすけ)
ブロガー
1981年静岡市生まれ。千葉県横芝光町在住。「URBANSPRAWL -限界ニュータウン探訪記-」管理人。「楽待不動産投資新聞」にコラムを連載中。著書に『限界ニュータウン 荒廃する超郊外分譲地』(太郎次郎社エディタス)がある。
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(ブロガー 吉川 祐介)

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