なぜ開催されてもいない「大吉原展」が炎上するのか…「アートだから許される」が通用しなくなった根本原因

2024年2月17日(土)14時15分 プレジデント社

「大吉原展」公式ホームページより

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3月に東京藝術大学大学美術館で開催される「大吉原展」がネット上で批判を集めている。神戸学院大学の鈴木洋仁准教授は「全方位に配慮が必要な日本社会では、『アートだから許される』が通用しなくなっている。特に今回のような公的機関の催しは、槍玉に上げられ、潰されやすい」という——。
「大吉原展」公式ホームページより

■「大吉原展」炎上のきっかけ


3月26日から東京・上野の東京藝術大学大学美術館で開かれる予定の「大吉原展」が炎上している。


きっかけのひとつは、漫画家の瀧波ユカリ氏による2月5日のX(旧ツイッター)への次のポストだろう。


女性が無理やり体を売らされていたのに、あたかも楽しい場所だったかのように褒めているのではないか。それが瀧波氏の疑問と言えよう。


吉原は、現在でも多くのソープランドが軒を連ねており、その源流は、江戸時代にさかのぼる。「大吉原展」のプレスリリースにあるように、「約10万平方メートルもの広大な敷地に約250年もの長きに渡り続いた幕府公認の遊廓」だったのである。


遊郭は、公的な売春地域であり、すでに消えた場所である。この展覧会は、「現在の社会通念からは許されざる制度」との見方から始めたという。


それでも、多くの批判を受けて、2月8日、ウェブサイトに「『大吉原展』の開催につきまして」との声明を主催者側が発表した。そこでは、「遊郭『吉原』」は、「人権侵害・女性虐待にほかならず、許されない制度」だとし、「決して繰り返してはならない女性差別の負の歴史をふまえて展示してまいります」と結んでいる。


■なぜ「開催前」に盛り上がるのか


瀧波氏は、ウェブサイトの文言や文脈に反応しており、この展覧会が「あまりにも『買う側』の視点に寄りすぎてはいないか?」と疑問を呈している。脳科学者の茂木健一郎氏もまた、「アートに関わる国内のトップ大学としてあり得ないお粗末さ」と指摘している。


議論は、売春をどう扱うかをめぐって交わされている。


こうした点については、遊廓専門の出版社「カストリ出版」と書店「カストリ書房」を経営し、全国各地の娼街の取材・撮影を続けている渡辺豪氏による詳しい解説がある。また、売春の歴史については、文芸評論家の小谷野敦氏の研究がある。


売春を讃美するのかしないのか。


ここでは、そういった論点よりも前に、なぜ展覧会が始まってもいないのに、これだけ議論が盛り上がるのか。それを考えたい。


■「まだ始まっていない」からこそ


いや、この問いへの答えは、すぐに出るのかもしれない。


始まっていない「にもかかわらず」ではなく、始まっていない「からこそ」、ここまで話が盛り上がるのではないか、と。


現時点では、誰も、おそらくは主催者すらも、展示全体を見ていないからである。何が、どうやって展示されているのか。どんな印象を持つのか。世界中の誰にもわからないからである。


たしかに、プレスリリースを見れば、展覧会会場の構成や、「みどころ」「主な出品作品」の解説があるから、想像はできよう。


着想を得たとする高橋由一の名作《花魁》(1872年)は、重要文化財であり、「花魁が纏う神秘性を剥ぎ取ってしまったともいえるだろう」との解説文は、主催者のスタンスを示す。


高橋由一《花魁》[重要文化財] 明治5年(1872) 東京藝術大学(画像=東京芸術大学大学美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

それとて、会場で実際に作品を目にするリアリティーには比べようがない。


だからこそ、みんなが簡単に論じられるのである。プレスリリースやウェブサイトの文言だけを材料にするから、いくらでも批判できるし、逆に、擁護もできる。


どんな立場にせよ、「まだ始まっていない」を言い訳にできるし、「開催には反対しない」とか「開催するのが大事」といった、原則論を取れる。


■私設美術館の「エログロ」は炎上しない


原則論は、さらに、会場の東京藝術大学が国立大学、つまり、税金で運営されているところからも拍車がかかる。税金を使っている「のに」ケシカラン、なのか、税金を使っている「ゆえに」幅広く認めるべき、といったかたちで、話は広がっていく。


開催前、という点に加えて考えるべきなのは、こうした公的な催しをめぐる、昨今の動きである。


今回の展覧会が、東京藝大ではなく、私立大学を会場にしていたら、あるいは、私設の美術館なら、問題視されなかったのではないか。


編集者・写真家の都築響一氏のコレクションの一部を展示している、東京・向島の大道芸術館を挙げよう。


そこには、かつて日本各地にあった秘宝館から引き取った作品が並ぶ。秘宝館では、裸の人形や、性器をモデルにしたオブジェなどを展示していた。都築氏による表現を借りれば「エログロの妄想を『等身大』のインスタレーション空間に表現する純粋な観光施設*」である。


*都築響一「秘宝館の記憶」『大道芸術館 museum of roadside art』2022年、5ページ


■「春画」の展覧会をめぐる日英の差


「公的機関がなにもしてくれなくたって」と都築氏が気概を述べるとおり、文化行政からも税金での運営からも、同館は無縁である、縁がないから、制約もなく、炎上の危険もほぼない。


裏を返せば、それほどまでに今、公的な場所での催しは難しくなっている。


江戸期の性をめぐるアートについて言えば、性生活を描いた春画、その展覧会について思い起こせよう。


2013年、日英交流400年を記念して、イギリス・ロンドンの大英博物館で行われた「春画 日本美術における性とたのしみ(Shunga sex and pleasure in Japanese art)」は、入場者数が9万人に迫り、その6割が女性だったという。


写真=Avalon/時事通信フォト
大英博物館で開催された「春画展」の様子。9万人が訪れ、約6割が女性だった(2013年10月1日、ロンドン) - 写真=Avalon/時事通信フォト

けれども、「本場」であるはずの日本では、開催を引き受ける機関が、なかなか見つからなかった。「現場が前向きでも、『何が起きるかわからない』『イメージが悪い』などの理由でトップが判断を覆すこともあった」からである。


性にまつわる内容だけではない。公的なお金の出し方をめぐっては、近年、いくつもの困難が立ちはだかる。


■「公益性」をめぐる最高裁判決


映画『宮本から君へ』(2019年)に対して、文部科学省(文化庁)の所管する国の独立行政法人日本芸術文化振興会(芸文振)は、内定していた助成金の交付を取りやめた。


その理由は、同作に出演したピエール瀧氏が薬物事件で有罪が決定したからである。裁判のなかで、映画を助成すれば「国が違法薬物に寛容だ」とのメッセージが広まる恐れがあり、「公益性」をもとに不交付を決めた、と芸文振は主張していた。


映画の制作会社「スターサンズ」が不交付決定の取り消しを求めた裁判は、昨年11月17日、最高裁判所で同社の勝訴が確定、すなわち、助成金を交付すべきだとの判断が下された。


ここで注目すべきなのは、最高裁の尾島明裁判長が示した、公益性をめぐる判決理由である。芸文振が不交付の理由とした「公益性」は抽象的な概念であり、それを理由に助成しないようになれば、選別の基準も「不明確にならざるを得ない」とした。


出演者や関係者の不祥事によって、映画の公開やテレビ放送が危ぶまれるたびに、「作品に罪はない」との意見が飛び交う。そうした意見は、今では広く受け入れられているのかもしれない。


■「国が売春に寛容」という論理の横滑り


ただ問題は、「公益性」が、「大吉原展」にも関係してくるところにあるのではないか。


芸文振が唱えていたように、刑事処分を受けた俳優が出演していた映画に助成することすら「公益性」を盾に憚られるのであれば、売春の地=吉原をフィーチャーした展覧会を公的機関=国立大学法人東京藝術大学で行うなど、もってのほか、となってしまうのではないか。


映画の助成が「国が違法薬物に寛容だ」とのメッセージが広まる恐れにつながるとの理屈が成り立つのなら、「大吉原展」の開催は「国が売春に寛容だ」ととらえられかねないとの論理に横滑りしてしまうからである。


もちろん、最高裁の判決で、そうした理屈は否定された以上、今回の展覧会についても、少なくとも開催をやめさせる根拠にはなりえない。とはいえ、開催前から既に炎上している以上、主催者は、開催中止や延期を検討している可能性はある。


展覧会であれ映画であれ、なぜここまで重く見るのだろうか。


■「たかがアート」と考えることの意味


あえて語弊を恐れずに言えば、「たかがアート」の視点が欠けているからである。


アートは、政治のように法律を決めているわけでもないし、経済のようにダイレクトにお金に結びつくわけでもない。社会問題になるほど、アートそのものの被害者がいるわけでもない。


卑下する必要があるわけではないし、そう貶しているわけでもない。実際、アートマーケットは世界で沸騰しており、村上隆や草間彌生の作品が超高額で取引されている


お金だけではない。芸術によって、生きるための大きなエネルギーをもらえるのは確かだし、それなしの生活は、少なくとも私には考えられない。


それでもやはり、「たかがアート」に過ぎない。


戦争のように、すぐに人の生死にかかわるわけではないし、医療のように、直に人を助けられるわけでもない。そして、今回の「大吉原展」をめぐる議論が象徴しているように、もはや「アートだから許される」は通用しなくなっている。歴史や文脈を踏まえてもなお、いまの価値観に合わせて展示しなければいけない、との声は高まっている。


だからこそアートは不可欠なのである。


あくまでも「たかがアート」でしかない、それぐらい非力であるからこそ、そこには、とてつもない魅力があり、威力があり、引力がある。


「たかがアート」と思って、目くじらを立てず、しかし同時に、「されどアート」ゆえの社会的責任や影響力の大きさを考える。そこにこそアートの意味があるのではないか。


その意味は、大道芸術館のようにプライベートな施設でも存分に果たせるのだから、公的な催しとして行う価値もまた大きい。


「大吉原展」もまた「たかがアート」の立場から考え直したい。


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鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)
神戸学院大学現代社会学部 准教授
1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て現職。専門は、歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)、『「三代目」スタディーズ 世代と系図から読む近代日本』(青弓社)など。共著(分担執筆)として、『運動としての大衆文化:協働・ファン・文化工作』(大塚英志編、水声社)、『「明治日本と革命中国」の思想史 近代東アジアにおける「知」とナショナリズムの相互還流』(楊際開、伊東貴之編著、ミネルヴァ書房)などがある。
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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)

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